(承前)
『四つの最後の歌』初演時の曲順は、どうやら芸術的配慮からではなく、「声域」という現実的な要請で変えられたとおぼしい。とはいうものの、当代随一のソプラノと巨匠指揮者が協働して創り上げた演奏は、この曲の尊重すべき規範として、後続する演奏のありように少なからぬ影響を及ぼしたと考えられる。その影響力はブージー&ホークス社の刊行楽譜をも凌ぐものだったかもしれない。
いきなり深い感慨に満たされた「眠りにつこうとして」から始まることで、聴衆の心をただちに捉えてしまうという、この曲順ならではの「強み」が、演奏家たちに好まれたという事情もあったかもしれない。
一例を挙げるなら、ロンドンでの世界初演から一年後の1951年5月2日、ストックホルムで行われた同曲のスウェーデン初演に際しても、「眠りにつこうとして」「九月」「春」「夕映えに」という曲順が遵守されていた。ちなみに、このとき歌ったのはユーゴスラヴィア出身のセナ・ユリナッチ、指揮はシュトラウスの盟友のひとりだったフリッツ・ブッシュである(ただし、手許のCDでは「春」で始まる通常の曲順に修正されてしまっているが)。
もうひとつ、1953年6月にウィーンで収録された同曲の最初のスタジオ録音もまた、公刊譜にあえて背を向けて、初演時のフラグスタートの曲順をやはり遵守しているのである。独唱はスイスのソプラノ、リーザ・デラ・カーサ。デビュー間もなくシュトラウスじきじきの祝福を受けたという逸材である。指揮はやはりシュトラウスが高く買っていたカール・ベーム、オーケストラはウィーン・フィルとくれば、もしも作曲者が生きていれば絶賛したに違いない演奏であることが想像されよう。半世紀以上を経た今日でもファンの間で尊重されている名盤である。
フリッツ・ブッシュ、カール・ベームというシュトラウス御用達の指揮者が相次いで取り上げ、同じ曲順を踏襲したことで、フラグスタートの「楽譜に従わない」スタイルが根付くかにみえた矢先、その流れを一挙に変える強力な録音が登場する。エリーザベト・シュヴァルツコップが歌い、オットー・アッカーマンがフィルハーモニア管弦楽団(世界初演時の団体)を指揮した演奏がそれである。録音はデラ・カーサ=ベームに遅れること三か月、1953年9月である。
ここに到ってようやく、「春」「九月」「眠りにつこうとして」「夕映えに」という楽譜どおりの曲順が音盤に刻まれた。しかも、それまで誰もがなしえなかったテクストの深い読み込みと、委曲を尽くした綿密入念な歌唱を伴って。
録音プロデュースはもちろんシュヴァルツコップの夫君であるウォルター・レッグ。彼は英国EMI のプロデューサーにして、フィルハーモニア管弦楽団のオーナーでもある大立者であり、1950年の『四つの最後の歌』世界初演の影の立役者とも目される人物。そのレッグがいわば満を持して世に問うたのが、初演者ならぬ愛妻シュヴァルツコップを抜擢したこのLPである。
レッグがここでフラグスタートを起用しなかった理由としては、何よりもまず彼女とEMI との契約が失効していたことが決定的だろうが、それに加えて、彼女の声がこの曲を歌いこなすにはもはや十全でないと判断されたのも大きかろう。
前年の52年6月、レッグのプロデュースでフルトヴェングラー指揮『トリスタンとイゾルデ』全曲を録音中、イゾルデ役のフラグスタートがどうしても出せない高音をシュヴァルツコップが「肩代わり」して歌うという出来事があった。この噂が表沙汰になったため、フラグスタートは二度とレッグとは組まなくなったのだという。
ともあれ、このシュヴァルツコップの53年盤は同時期のデラ・カーサ盤を尻目に、稀代の名盤の名をほしいままにした(65年に彼女自身のステレオ再録音がなされるまでは)。フィルハーモニア管弦楽団の伴奏もさすが初演団体だけあって、緻密で流麗な仕上がりをみせる。スイスの指揮者アッカーマンの指揮も悪くないのだが、ここはやはり(当時のフィルハーモニアの統帥たる)カラヤンの指揮であってほしかったと思うのは無い物ねだりだろうか。
(つづく)