1950年5月20日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。
この武道館さながらにだだっ広いホールで、リヒャルト・シュトラウスの最新作が世界初演された。ただし老作曲家の姿は会場にはない。八か月前の1949年9月8日、ドイツ・ロマン派最後の巨匠はこの曲が音になるのを待たずに世を去っていた。享年八十五。
『四つの最後の歌 Vier letzte Lieder / Four Last Songs』は、文字どおりシュトラウスの「辞世の歌」となった。1948年にこの管弦楽伴奏つきの歌曲四曲を書きながら、彼はこれが自らの生涯を締め括る作品となることを充分に自覚していた。
「いまやわが想いのすべては/ひたすらにまどろみを希う」と吐露する「眠りにつこうとして」(ヘルマン・ヘッセ詩)、「さすらうのに疲れた私たち/これはひょっとして死ではないのか」と結ばれる「夕映えに」(アイヒェンドルフ詩)。生の終焉を前に静かに死を想う内容の詩篇がことさらに選ばれていることからも、この連作歌曲が「最後の作品」もしくは「辞世の歌」として構想されていたことは想像に難くない。
もっとも標題にある "letzte" とは「最後の」とも「最近・最新の」ともとれる両義的な形容詞だから、これをただ単に「四つの近作歌曲」と解することもできなくはない。そもそも、このタイトルをつけたのはシュトラウスその人ではなく、彼の歿後に楽譜編纂・出版の任にあたった Boosey & Hawkes社のエルンスト・ロートだったというから、題名の過度の深読みは禁物かもしれない。作曲家自身、ひょっとして生きてこの曲の初演を聴けるかと思っていたふしもないではないが、運命の女神は彼にその機会をついに与えなかった。
この晩、会場に足を運んだ英京の聴衆は、さながらシュトラウスの遺言の開封に立ち会うような厳粛な思いで、めいめい席についたことだろう。
歴史的初演を任された歌手は、不世出のワーグナー歌いと称えられたドラマティック・ソプラノ、ノルウェイ出身のキルステン・フラグスタート。
創設から日の浅いフィルハーモニア管弦楽団を率いてタクトを執るのは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーその人であった。
思いがけない人物が客席にいて、この息を呑むような瞬間を見守っていた。ドナルド・キーンである。日本文学研究を志して1948年からケンブリッジ大学に籍を置いていた彼は、知る人ぞ知る無類の音楽好きでもあり、戦前から戦中にかけてニューヨークのメトロポリタン歌劇場でフラグスタートの舞台に通い詰めた経歴の持ち主である。
フラグスタートはこの不慣れな新曲を暗譜してはおらず、老眼鏡をかけて楽譜と首っ引きで歌ったのだという。そのありさまがあたかも「ブリュンヒルデが眼鏡をして出てきたよう」で、なんとも珍妙だった、と記したエッセイを小生はたしかに読んだ気がするのだが、手許にあるキーンの著作を探しても、どこにもそんな記述が見当たらない。
それとはちょっと違うのだが、ようやく見つかった別の回想をとりあえずここに引いておく。彼の三冊目の音楽エッセイ集『ついさきの歌声は』(中矢一義訳、中央公論社、1981)の一節である。
フラグスタートが歌うのを最後に聴いたのは、ロンドン滞在中だった。わたしは彼女の最後の《パルジファル》と《トリスタンとイゾルデ》に立ち会うことができたのである。フラグスタートが、彼女にとって初めての曲であるリヒャルト・シュトラウスの《最後の四つの歌》に挑戦してみせた、一九五〇年五月のロイヤル・アルバート・ホールにおけるコンサートにも出かけた。眼鏡をかけ楽譜を見ながら歌っているのに最初は失望を覚えたが、舞台と観客の間に霞がたなびくことさえ珍しくないあの巨大なホールにおいてさえ、彼女の声は独特の壮大さをもって鳴り響いていた。
これで勘弁してほしい。まあ、この一節だって頗る貴重な証言なのであるが。
(明日につづく)