東京ほど数多くのオーケストラが犇いている都市は世界じゅうでほかにないだろう。そのわりに足を運びたくなるような演奏会が乏しいのは、プログラム編成が十年一日のごとく面白味を欠いているためだ。CDではかくも多岐にわたる音楽が聴けるというのに、この創意工夫のなさは嘆かわしい限りだ。
そうした状況下、今夕の演目にはそそられた。読売日本交響楽団の常任指揮者に就任したスタニスラフ・スクロヴァチェフスキの一連の「お披露目」公演、その掉尾を飾る演奏会である。家人とともに駆けつけてみたが、果たして首尾はいかに。
オネゲル: 交響曲 第2番
メシアン: われら死者の甦りを待ち望む
ブラームス: 交響曲 第2番
読売日本交響楽団 第489回名曲シリーズ
東京芸術劇場(池袋) 18:00~
スクロヴァチェフスキの実演は初めて。ディスクでは大昔からいろいろ聴いてきたが、最近は英国のハレ管弦楽団とのショスタコーヴィチが印象に残っている。世評どおりの巨匠かどうかは今日聴いてから考えよう。
オネゲルの第二交響曲は古くから鍾愛の曲だったわりに実演体験はただ一度だけ。数年前、ジャン=フランソワ・パイヤールが水戸室内管弦楽団を振ったのを聴いたきりなのだ。大編成(といっても弦楽のみだが)で聴いてみたかったし、戦後間もなくパリで学んだスクロヴァチェフスキにはこの曲に何か個人的な思い入れがありそうな気がしたのだ。
舞台一杯に弦楽奏者が並ぶのをみて、これは分厚い響きで熱っぽく演ずるのか…と予想したら、さにあらず。畳みかけるような緊迫感やささくれだった絶叫は皆無。むしろ抑制した響きで特徴づけられる沈着な演奏だった。そのぶん、弱音の意味深さが随所で際立つ。ミュンシュとは対蹠的な行き方だし、これまでディスクで聴いたどの演奏とも違う細部の微細な立ちあがりにハッとさせられる。とりわけ第二楽章「アダージョ・メスト」が出色。
終楽章のコーダで加わるトランペット・ソロは、なんと舞台下手の隅っこから聞こえたので吃驚。ぎりぎりまで袖で待機し、さっと登場して吹いた。これはちょっと珍しいのではなかろうか。でもこれはやはり正面後方で喨々と鳴り響いてほしかった。
次のメシアンは苦手な作曲家なので、どう評したらよいものか。ましてこの「われら死者の…」はその昔、セルジュ・ボドのLP盤(同曲の最初の録音)しか聴いていない。
スクロヴァチェフスキの指揮ぶりは傍目にも不器用でかなり大雑把なのだが、読響アンサンブルは健闘していたと思う。木管・金管と銅鑼・鐘などの打楽器群のみで奏されるこの曲では、音色配合のコントロールが演奏の成否を分ける鍵だろうが、今日のは及第点に達する水準ではなかろうか。
戦時下を実感させるオネゲル(1941)と、終戦二十年を画するメシアン(1964)との編年的対照も感慨深いが、片や弦楽合奏のみ、片や弦楽抜きの管・打楽器のみ、という編成の鮮やかな対比にも耳目を奪われる。なるほど、この二曲は新常任スクロヴァチェフスキがオーケストラから何を引き出すか、についてのデモンストレーション、というか、恰好のマニフェストたり得ていよう。
そして休憩を挟んだ後半、ようやくすべての奏者が舞台に出揃い、オーソドックスにブラームスを奏するという曲目配置。これが今日の演奏会に新鮮な異化効果をもたらしていたと思う。ここでも指揮者は大仰な「歌い過ぎ」を排し、清潔なアーティキュレーションに意を用いていた。終楽章の昂揚感もすっきり爽快。ああ気持ちのよいブラームスを聴いた!
会場にはTVカメラが入っていた。NHKが収録の由。いずれじっくり観直す機会もあろう。