芹沢光治良がこの遠い日の回想をしたためたのは1975年のこと。
佐伯一家といっしょに「モーツァルト」を観劇した1925年からちょうど半世紀の歳月が流れている。それにしては記憶が鮮明なのには驚くばかりである。もちろん作家の書くものだから多少の文飾も含まれていようが、大筋においてはこのとおりだったのだ、と信じさせるリアリティがある。よほどこの日の出来事が強烈な印象として刻まれたのであろう。
ただし、記憶違いもある。オペレッタの題名は「モザールの一生」ではなく、ただ"Mozart" といい、モーツァルト22歳のパリ滞在時のわずか半年ほどを題材にした内容である。
佐伯がさめざめと涙した「愛の手紙」とは、第ニ幕の幕切れにある手紙のアリア Air de la lettre 「恋人よ、あなたが旅立ってから Depuis ton départ, mon amour" のことだろうが、これは芹沢が説くように「青年モザールが故郷に残した恋人へ送る手紙を」貴族たちの前で披露する場面ではなく、その反対に、郷里ザルツブルクに残してきた婚約者から届いた恋文をモーツァルトが皆の前で読む場面なのである。
"Depuis ton départ, mon amour,
Depuis, hélas! de si long jours,
Ma pensée
Ne te quitte pas..."
C'est de ma fiancée
Que j'ai laissée
Là-bas!
"Porte-toi bien...
Travaille bien...
Et puis aussi
Amuse-toi
Certainement...
Mais je t'en prie,
Quand tu m'éris,
Dis-moi toujours
Que tu t'ennuies
Horriblement...
Depuis ton départ, mon amour,
Depuis, hélas! de si long jours,
Ma pensée
Ne te quitte pas!"
「恋人よ、あなたが旅立ってから、
ああ、随分と長い月日になりますが、
私の想いは決して
あなたを離れません…」
これは僕が
故国に残してきた
フィアンセからの便りです!
「お体を労わって…
しっかりお仕事なさって…
そしてもちろん
愉しくお過ごしになって…
でもお願いですから、
お便りを下さるときには
死ぬほど退屈してる、って
お書きになって…
恋人よ、あなたが旅立ってから、
随分と長い月日になりますが、
私の想いは決して
あなたを離れません!」
そしてモーツァルトはぽつんと呟く、「彼女は僕のことばかり考えてるんだ!」。
パリを満喫し、自由を謳歌していたモーツァルトはこのあと第三幕でパトロンのグリム男爵(演ずるはサッシャ・ギトリ)の忠告を受け入れ、忘れがたい想い出を胸に、パリをあとに旅立っていく。
(つづく)