(承前)
さあ、ようやく話が核心に触れたようだ。そろそろ話題をショスタコーヴィチの管弦楽曲「タヒチ・トロット」(1927年作曲/28年初演)に戻す頃合であろう。
ここで、彼にこの曲のオーケストラ編曲を勧めたという指揮者ニコライ・マリコの証言に、もう一度耳を傾けてみよう。引用は彼の歿後に刊行された自伝的著作 "A Certain Art" (1966)である。ちなみにこの部分の執筆は1944年というから、内容はかなり信憑性が高いと思われる。
話のついでに、[ショスタコーヴィチの作品]一覧表に載っていない作品について少々述べさせてほしい。メイエルホリド劇場が『吼えろ支那』という芝居を上演した。そのなかで、何人かのアメリカ人が船上でダンスを踊る場面がある。この場面で用いられたフォックストロットはたいそう有名になった。だが誰一人その作曲家を知らなかった。もっぱらの噂では、誰かがラジオでこの曲を聴いて、書き留めたものだという。「タイチ・トロット Taiti Trot」と呼ばれていた。実をいえば、それは「二人でお茶を Tea for Two」だったのだ。ジャズ音楽は当時のロシアでは目の仇にされていた。私はこの考えには与せず、そのフォックストロットなどは悪くない音楽だと公言した。私はショスタコーヴィチに向かって、これを管弦楽に編曲するよう持ちかけた。彼は喜んで応じ、私はこの編曲をロシアのいくつかの都市で演奏した。ちなみに、マリコはショスタコーヴィチの管弦楽編曲を「タヒチ・トロット」でなく「タイチ・トロット Taiti Trot」と呼んでいるが、最近刊行された自筆譜(マリコ旧蔵)のファクシミリ版をみると、ショスタコーヴィチ自身、表紙に "Taiti-Trot" と鉛筆書きのローマ字表記で記しているのが確かめられる(ちなみに「タヒチ」はフランス語では「タイチ」と発音され、ロシア語でも通常「タイチ」と呼ばれる由)。
前にも指摘したように、たまたまレコードで耳にしたこの曲を「君が天才なら一時間以内に管弦楽編曲したまえ」とけしかけた、という有名な賭けの話は一切出てこない。
すでに明らかになったように、ショスタコーヴィチが管弦楽編曲した1927年秋の時点で、ユーマンズの「二人でお茶を」の旋律は、少なくともモスクワっ子の間では相当に知られていたわけだから、ショスタコーヴィチが全くこの曲を知らずにいたとは考えにくい。当時の彼はレニングラード在住だったが、頻繁にモスクワを訪れており、しかも1923年頃からメイエルホリド劇場とも接触をもっていたので、1926年に初演され、同劇場の当たり狂言のひとつとして再三上演された『吼えろ支那』を観なかったとは到底思えないのだ。
実は1930年の時点でニコライ・マリコは次のように証言している。
ショスタコーヴィチはしばしばこのフォックストロットをピアノで弾いていた、それもたいそう美しく。私はその曲を管弦楽編曲するよう彼に依頼した。事の次第はそういうことだ。 (『プロレタリア音楽家』第6号)
ショスタコーヴィチはポドレフスキー&フォミーン版「タイチ・トロット」を知っていたろうか。
もちろんその存在を承知していたろう。だからこそ、自分の編曲を同じ題名で呼んだのだ。
ショスタコーヴィチの自筆譜は注文主で初演者のニコライ・マリコに献呈され、1929年のマリコ亡命に伴いソ連国外に流出した。1961年にマリコが死去するまで、それは彼の手許にあったが、その後は長らく行方不明だった。ショスタコーヴィチの死後間もなく、指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーがマリコの未亡人と接触した際も、オーケストラ用のパート譜しか見つからず、彼はこれらをかき集めて総譜を復元せねばならなかった。
1989年に再発見され、このたびパウル・ザッハー財団の手で精密なファクシミリ版が刊行されたのはショスタコーヴィチ愛好家にとって何よりの朗報である。本稿もまた、このファクシミリ版に寄せられた論考と、別冊附録として付いたポドレフスキー&フォミーン版「タイチ・トロット」楽譜の覆刻版に、実に多くを負うている。
B4判全12頁(譜面本体は10頁)からなる自筆譜を見ると、こまごまと丁寧なペンの筆跡から、これを一時間以内に書き終えることは、いかにショスタコーヴィチが天才的な速筆であっても、到底不可能であることがすぐに諒解される。この総譜に先立つ略式のスケッチ(断片的にモスクワのショスタコーヴィチ・アーカイヴに残存)ならともかく、これはかなり時間をかけて綿密に練られた譜面である(ただし浄書譜ではなく、ほうぼうに書き直しや抹消跡が散見される)。
彼がレコードを聴いて、その記憶から譜面を起こしたという「伝説」も、どうやら理屈に合わない。
完成した音楽を聴けばわかるとおり、ショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット」は、短い序奏のあと、16小節のヴァースを経て、主部である32小節のリフレインを二度繰り返し、そのあと律儀にまた16小節のヴァースに戻り、最後にまた32小節のリフレインを今度は一度だけ奏して終わる。
もちろん、その都度、オーケストレーションは千変万化するわけで、そこに編曲者としての腕の見せ所があったわけだが、そもそも当時出ていた原曲「二人でお茶を」のレコードで、楽譜どおりヴァース+リフレイン(二回)+ヴァース+リフレイン(二回)という構成を遵守していた例はおそらく皆無だった。当時のSP盤は片面三分半ほどが収録の限度であり、ほとんどの演奏がヴァース+リフレイン(二回)で曲を終わらせざるを得なかったからである。
試みに、「二人でお茶を」の最も初期のディスクのひとつであるマリオン・ハリス Marion Harris 歌唱の盤(Brunswick, 1925年10月吹込)を聴いてみると、序奏+ヴァース+リフレイン(二回)だけで歌い終えており、これでも三分ちょっとかかっている。
彼はもちろん生演奏でもレコードでもこの曲に接したと思うが、管弦楽編曲にあたってはやはりオリジナルの譜面をじかに参照していたと考えられよう。細部まで正確なトランスクリプションであることがそう推察させるし、何よりも彼の「タヒチ・トロット」の調性が♭四つの変イ長調であることが見逃せない。すなわち、原作であるユーマンズ版のデュエット譜と同じ調性なのだ(フォミーンの「タイチ・トロット」はト長調)。ついでに附言すると、当時出た「二人でお茶を」のSPで変イ長調を守っているものは皆無なのだという。
以上の考察だけからも、ショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット」が咄嗟の思いつきで書かれた座興の作などではなく、周到な準備と熟慮を経て入念に編曲されたものであることが得心されよう。だからこそ、彼はこの小さなマスターピースに、誇りをもって「作品16」という番号を自ら附したのである。
自筆譜の末尾には、お馴染のちょっと神経質な筆跡で、
親愛なる友ニコライ・アンドレエヴィチ・マリコへ
わが篤き愛情の証として
D・ショスタコーヴィチ
27年10月1日、レニングラードと献呈の辞が書き添えられている。
(次回につづく)