言葉、言葉、言葉。
ノエル・カワードの芝居の愉しさは、ことごとく台詞のやりとりに由来する。
1993年のこと、初めてロンドンを訪れたとき、たまたま "Present Laughter" という未知のカワード劇をやっていた。さっそく書店でペーパーバック版台本を購め、昼間ハイドパークの芝生でひととおり目を通してから、劇場へ足を運んだ。ただし、事前に結末がわかってしまうのも興醒めなので、終幕だけはわざと読まずにおいた。
ギールグッド座の舞台は素晴らしかった。夢見心地になった。もっとも理解できたのは台詞の二、三割程度だろうか。それでもどうにかプロットが辿れたのは、公園での予習のたまものなのは言うまでもない。
ところが、終幕に入った途端、まるで台詞が聴き取れなくなった。急転直下、結末に向けストーリーが収斂していく過程がサッパリわからず、肝腎の大団円が呑み込めぬまま幕となった。情けないやら、悲しいやら。
やっぱり言葉、言葉、言葉だなあ、カワードを原語で楽しむなんて夢のまた夢だ、と痛感させられた。
だから日本語でカワード劇が観られるのはありがたい。台詞の隅々まで味わえて、登場人物の心理の綾が手に取るようにわかるのが嬉しいのだ。
昨年の『出番を待ちながら』(4月、俳優座劇場)、『プライベート・ライヴズ(私生活)』(9月、青山円形劇場)に続き、今年は『相対価値 Relative Values』の登場だ。カワード後期の知られざる戯曲(1951初演)であり、これが日本初演となる。
台本/ノエル・カワード
翻訳/高橋知伽子
演出/高瀬久男
音楽/稲本 響
美術/中村公一
フェリシティ(マーシュウッド伯未亡人)/若尾文子
モクシー(フェリシティ付きメイド)/柴田理恵
ミランダ・フレイル(ハリウッド女優)/愛華みれ
クレストウェル(マーシュウッド家の執事)/綾田俊樹
アリス(マーシュウッド家のメイド)/秋山エリサ
ナイジェル(マーシュウッド伯、フェリシティの息子)/小林十市
ドン・ルーカス(ハリウッド俳優)/縄田 晋
ピーター・イングルトン(フェリシティの甥)/小林高鹿
ヘイリング夫人(フェリシティの友人)/峰さを理
ル テアトル銀座/2007年3月19日~4月1日/今日は4時30分開場・5時開演
このシアターはもと「銀座セゾン劇場」といった。その時分に、ここでやはりカワードの『陽気な幽霊 Blithe Spirit』を観たことがある。1993年のことだ。それ以前に、カワードとガートルード・ローレンスを主人公にしたミュージカル『ノーエルとガーティ』を観たのも、たしかこの劇場だったはずだ。大きすぎず、適度の傾斜がついた、観やすい小屋である。
開場と同時に入場、さっそくプログラムを買う。呆れるほどの無内容、不見識。これで千円とは笑わせる。悪い予感・その一。
早めに着席すると、すでに幕は上がっていて、上方の紗幕に RELATIVE VALUES の文字とノエル・カワードの名が投影されている。カワードのスペリングが堂々と間違っているのはどうかと思う。だいいち恥かしい。これが悪い予感・その二。
時は1950年頃(?)、英国ケント州の田舎屋敷に居を構えるマーシュウッド伯爵家。家を守るのは先代の未亡人フェリシティ。有能な執事クレストウェルや、メイドのモクシーがかいがいしく仕えている。
そこに突然、息子のナイジェル(現伯爵)が婚約者を連れて戻ってくるという。そのフィアンセはハリウッドの映画女優のミランダ。いくら有名だからといって、階級違いの結婚は好ましくない、というのが母フェリシティの本心。しぶしぶ迎え入れるほかないと思っている。
女優ミランダの来訪に心中穏やかでないのが、メイドのモクシー。もしミランダが伯爵夫人になってここで暮らすのなら、自分は二十年間務めたこの屋敷を去るしかない、と思いつめる。フェリシティに問い詰められ、モクシーはついに告白する。ミランダは自分の実の妹なのだ、と。
モクシーはずいぶん前に絶縁して、それきり妹とは会っていないが、ハリウッドで女優として成功したのは知っていた。その妹が、こともあろうに自分が仕えている伯爵家に嫁いでくる。妹が伯爵夫人、姉が使用人。とても同じ屋根の下で暮らせるはずがない。
事情を知ったフェリシティはモクシーを慰留するとともに、執事クレストウェルや甥のピーターと相談し、モクシーの身分を隠すため、ひとつの奇策を思いつく。彼女に上等なドレスを着せ、この家に同居する「秘書役の友人」役を演じさせようというのだ。
そこに外から自動車のクラクションが聞こえる。いよいよ、ナイジェルが婚約者を連れて到着したのだ…。
というわけで、つまりはお馴染みのカワード調全開なのだが、いささか型どおり、予定調和気味の台本で、彼の戯曲のなかでは中くらいの出来映えかもしれない(ということは「たいそうよくできた」芝居ということなのだが)。
小生も家人も、生の若尾文子に接するのは初めて。七十三歳とは思えぬ美貌と貫禄には目をみはるばかりだが、これが彼女のベストフォームとは思えない。翻訳ものの喜劇は初挑戦だといい、ところどころ台詞回しが覚束なかったし、足元もふらついていた。
悩めるメイドに扮した柴田理恵はまずまず適役だったが、役づくりがいささか平板で、滑稽な喜劇的人物にみえてしまうのが難。これは演出家が責めを負うべきであろうが。
感心したのはヴェテラン執事を演じた綾田俊樹。立ち姿がいいし、口跡も鮮やか。この芝居全体を達観して眺めているような、階級社会への皮肉な眼差しが好もしいのだ。キャスト中で彼だけがカワード劇の何たるかを心得ているようにも思えた。
あとの面々は可もなく不可もなく、といった程度だろうか。誰もがちょっとずつ演技過剰なのは、やはり演出家の責任であろう。
これだからカワード劇は難しい。おびただしい言葉の応酬のなかから人間存在を浮かび上がらせ、関係性のドラマを焙り出すことの難しさ、なのだろう。
原題の Relative Values を「セレブの資格」と訳してしまったのも安易だし、だいいち意味不明、どういうセンスかと疑う。「相対価値」では題名にならないのはわかるが、そこをなんとかするのがプロというものだ。
という次第で、これまで日本で観たカワードのなかでは感心しない部類の舞台ではあったが、決して楽しめなかったわけではない。同行した家人もけっこう堪能した様子。
七時半には終演したので、数寄屋橋まで歩く。いささか空腹を覚えたので、例の「豚しゃぶ」の店で夕食。美味なわりに値段はリーズナブル、たらふく味わった。