(承前)
ニコライ・マリコは一冊の自伝的回想を遺している。
"A Certain Art" すなわち『あるひとつの芸術』と題されたこの書物は、彼が生涯の折々に書き溜めた思い出の記を、マリコの歿後、息子ジョージが遺著としてまとめたものである(William Morrow & Co., New York, 1966)。
指揮者の自叙伝や回顧録には読み応えのあるものが少なくないが、本書はトマス・ビーチャム卿やイーゴリ・マルケヴィチ、アンタル・ドラーティ、レーマン・エンゲルらの書き綴った回想と並んで、「面白くてやめられない」たぐいの読物である。
ニコライ・アンドレエヴィチ・マリコ Nikolai Andreevich Mal'ko(欧米での通称はニコライ・マルコ Nicolai Malko)は、1883年ウクライナのブライロフ生まれ。長じてペテルブルグ音楽院でリムスキー=コルサコフ、リャードフ、グラズノフ、チェレプニンに師事。ミュンヘンでフェリックス・モットルに学んだこともある。卒業後はマリインスキー劇場でバレエを指揮、フォーキン、パヴロワ、ニジンスキーらの舞台をピットから間近に体験した。
革命後の1918年から四年間はヴィテプスクで指揮と教育に携わり(マレーヴィチのヴィテプスク滞在とほぼ同期)、22年からはモスクワで同様の職に就く。25年レニングラードに移り、レニングラード・フィルハーモニーの常任指揮者として、レニングラード音楽院教授として活躍した。この時期の教え子に後年レニングラード・フィルを率いるエヴゲニー・ムラヴィンスキーがいる。
マリコはロシアの新音楽の熱烈な支持者として、若い作曲家の作品を積極的に取り上げた。ショスタコーヴィチの交響曲第1番と第2番、ミヤスコフスキーの交響曲第5番など、彼のタクトで初演された作品は少なくない。
革命当初は新政権に期待を託したマリコもほどなく幻滅し、ショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット」初演の翌1929年、南米への演奏旅行が許可されたのを機に、出国したまま戻らなかった。以後はコペンハーゲンのデンマーク王立管弦楽団、デンマーク国立放送交響楽団の常任指揮者を務め、欧州の戦火を逃れて渡米後はミルズ・カレッジやデ・ポール大学で教壇に立つが、実力にふさわしい常任のポストは得られなかった(亡命指揮者が汗牛充棟だったため)。
戦後は英国のヨークシャー交響楽団、次いでオーストラリアのシドニー交響楽団の常任と、いささか冴えないキャリアに甘んじた。幸いなことにレコード・プロデューサーのウォルター・レッグと親しく、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団を指揮したロシア音楽の録音が少なからず遺された。最晩年の1959年に訪日し、東京交響楽団を振ったほか、三十年ぶりにソ連を演奏旅行で訪れた。1961年シドニーで歿。
さて前置きはこの辺にして、ニコライ・マリコの回想に移ろう。彼は自らが深く関与した「タヒチ・トロット」の誕生秘話をどのように物語っているのか。
驚いたことに、そこにはわれわれの知らない話が記されていた。しかも、期待をはぐらかすかのように、その記述はいたって簡潔である。
話のついでに、[ショスタコーヴィチの作品]一覧表に載っていない作品について少々述べさせてほしい。メイエルホリド劇場が「吼えろ支那」という芝居を上演した。そのなかで、何人かのアメリカ人が船上でダンスを踊る場面がある。この場面で用いられたフォックストロットはたいそう有名になった。だが誰一人その作曲家を知らなかった。もっぱらの噂では、誰かがラジオでこの曲を聴いて、書き留めたものだという。「タイチ・トロット Taiti Trot」と呼ばれていた。実をいえば、それは「二人でお茶を Tea for Two」だったのだ。ジャズ音楽は当時のロシアでは目の仇にされていた。私はこの考えには与せず、そのフォックストロットなどは悪くない音楽だと公言した。私はショスタコーヴィチに向かって、これを管弦楽に編曲するよう持ちかけた。彼は喜んで応じ、私はこの編曲をロシアのいくつかの都市で演奏した。しばらくして、私の許可も作曲者の許可も得ずに、何者かがそのパート譜を書き写したことを耳にした(私は夏の間キエフでその譜面をたまたま図書室に放置していたのだ)。あとになって、軽音楽に対する[当局の]姿勢が変わってから、キエフのとある指揮者がこの「タイチ・トロット」を何度も演奏した。ショスタコーヴィチの作品一覧表には、この編曲もまた、「紛失」と記されている。この記述をみたとき、私は吃驚した。私は作曲家が編曲した譜面を所有しており、そこには「1927年9月、レニングラード」なる年記と、いかにも彼らしい神経質な筆跡ですこぶる好意的な献辞が入っている。「持ち時間一時間」の賭けの話はまるきり出てこない。
それどころか、事の成り行きは流布している物語とさまざまな点で食い違う。
まず第一に、「二人でお茶は」はすでにメイエルホリド劇場で付随音楽として用いられていた。それも当時、世界的に喧伝され、日本でも上演された「吼えろ支那」(セルゲイ・トレチヤコフ作、1926初演)のなかでだという。しかも同曲はすでにその時点で「タヒチ・トロット」と呼ばれていたらしい。
もうひとつ、見逃せないのは、この作品が作曲されたのは初演された1928年ではなく、1927年秋であるという事実である。これはマリコの記憶違いではない。同書には彼が所有している当該楽譜の最初の頁が写真で紹介されており、そこには「1927」の年記が明瞭に読み取れるからである。
(つづく)