(承前)
同じロジェストヴェンスキー指揮の「タヒチ・トロット」を収めたLPは1882年に英国でも出た(EMI Melodiya ASD-1650331)。そのライナーノーツもついでに訳しておこう。執筆はショスタコーヴィチ研究家の Derek C. Hulme である。
[…]ロシアの指揮者ニコライ・マリコ(1883-1961)は、ソフフィル管弦楽団(Sovphil とは「国営合資会社レニングラード支社」の略、「ソヴィエト・フィルハーモニー」とは恐れ入る)が1928年11月25日にモスクワ音楽院で催す演奏会のために、ショスタコーヴィチの諷刺オペラ「鼻」からの組曲(作品15a)と二つのスカルラッティ編曲(作品17)に加えて、演目をもう一曲増やす必要があった。レニングラードのマリコ邸で、指揮者は22歳の作曲家に向かって冗談半分でこう持ちかけた。「なあミーチェンカ(Mitenka)、もし君が天才だというのなら、どうか別室に行って、「二人でお茶を」の曲を君がどこまで思い出せるか、試してごらん。すぐ演奏できるようオーケストラ用に編曲するのだ。持ち時間は1時間」。ミーチェンカはその仕事を45分以内で仕上げ、譜面にこう書き込んだ。「タヒチ・トロット──親愛なるニコライ・アンドレエヴィチ・マリコへ、真心の証として」。同じ演奏が1998年にCDで再発されたとき(BMG Melodiya 74321 59058 2)、Sigrid Neef が書いた解説も併せて紹介しておく。
[…]ヴィンセント・ユーマンズのミュージカル「ノー、ノー、ナネット」からのフォックストロット「二人でお茶を」の編曲版は「タヒチ・トロット」の名でかなり広く知られていた。この絶妙な作品が生まれるお膳立てをしたのが指揮者のニコライ・マリコだった。「われわれのウクライナ演奏旅行(1928年)のさなか、ミーチャ(Mitya ドミートリーの愛称)は『タヒチ・トロット』のレコードに聴き入っていた。私は彼に言ってやった。『ねえミーチャ、もし君が人の噂どおり本当に秀才だというのなら、今から隣りの部屋に行き、この曲を記憶から採譜して、管弦楽用に編曲したまえ。そしたら演奏してあげよう。持ち時間は1時間とする』」。それから45分後──と物語は続く──ショスタコーヴィチはマリコに完成したスコアを手渡した。かくしてマリコは1928年にレニングラードでこれを初演した。これは前に引いた井上頼豊の所説とほとんど同じ内容である。Neef はここでわざわざ「 」付きでどうやらニコライ・マリコ自身のものらしき証言を引用しており、なんとなく信憑性を漂わせている。
もうひとつ、やはりショスタコーヴィチ研究家である Elizabeth Wilson が寄せたCD解説も紹介しておこう。これは1993年に出たリッカルド・シャイー指揮のアルバム "Shostakovich: Jazz Album" (Decca 433 702-2)に収められ、世界じゅうで広く読まれたとおぼしき文章である。
指揮者のニコライ・マリコはショスタコーヴィチの音楽的キャリアの目覚ましい始まりに、密接な関わりをもった人物である。マリコは1924年5月12日、その若書きの交響曲第1番を初演した。この交響曲の成功は直ちにショスタコーヴィチに名声をもたらす。この作品はブルーノ・ワルター、クレンペラー、トスカニーニといった指揮者に取り上げられ、演奏会のレパートリーとしても定着した。
このときからソ連を離れて亡命するまでの三年間、マリコはショスタコーヴィチ作品の普及に努めたばかりか、彼の庇護者にして友人としてもふるまった。[中略]
学生時代、ショスタコーヴィチは早くも初見での読譜、すなわち一目で音楽をわがものにしてしまう能力にかけて、伝説的な名声を馳せていた。「タヒチ・トロット」は1928年秋、ショスタコーヴィチの技量を試そうと、マリコが仕掛けた賭けの結果として生まれた。ショスタコーヴィチはヴィンセント・ユーマンズの「二人でお茶を」を一時間の制限時間内に管弦楽編曲するよう唆されたのである。ショスタコーヴィチはすぐさま作業に取りかかり、40分以内で輝かしくウィットに富んだ独創的なオーケストレーションを完成させた。マリコはこの「タヒチ・トロット」(ロシアでは同曲はこの名で知られた)をモスクワで1928年11月25日に初演した。同じコンサートにはさらに二曲のショスタコーヴィチの新作が含まれていた。仕上がったばかりのオペラ「鼻」からの組曲、これもマリコの委嘱作である「スカルラッティによる二つの小品」である。
「タヒチ・トロット」はロシアで絶大な人気を博し、レストランのダンス・バンドもこれを演奏した。指揮者のアレクサンドル・ガウクの示唆で、バレエ「黄金時代」の第三幕への間奏曲としても組み込まれた。それはこのバレエの上演で毎回決まってアンコールされる唯一のナンバーだった。このあたりで、ショスタコーヴィチの「タヒチ・トロット」出現までの経緯を時系列でまとめておこう。
1)1925年9月16日、ブロードウェイでミュージカル「ノー、ノー、ナネット No, No, Nanette」初日を迎える。挿入歌「二人でお茶を Tea for Two」が人気を呼ぶ。作曲はヴィンセント・ユーマンズ Vincent Youmans、作詞はアーヴィング・シーザー Irving Caesar。同ミュージカルはブロードウェーで321公演を記録し、翌26年にはロンドン、パリでも上演。
2)「二人でお茶を」はさまざまな楽譜と数種のSPレコードを通して世界的に大流行。その余波はやがてソ連にも及んだ。
3)指揮者のニコライ・マリコ、新進作曲家ショスタコーヴィチとともに「二人でお茶を」のレコードを聴く。マリコはショスタコーヴィチに対して、これを一時間以内で管弦楽用に編曲するよう促す。作曲家はわずか45分(あるいは40分)でこれを仕上げて賭けに勝つ。これは1928年、レニングラードのマリコ邸で、もしくはウクライナへの演奏旅行中に起こった出来事である。
4)1928年11月25日、「二人でお茶を」のショスタコーヴィチによる管弦楽編曲、「タヒチ・トロット Tahiti Trot」(作品16)としてモスクワ音楽院で初演。指揮はニコライ・マルコ、演奏はソフフィル管弦楽団。同時に歌劇「鼻」組曲(作品15a)、「スカルラッティによる二つの小品」(作品17)も初演。
5)1929~30年、ショスタコーヴィチはバレエ「黄金時代」を作曲。指揮者アレクサンドル・ガウクの要望により、第三幕への間奏曲として「タヒチ・トロット」を再編曲のうえ組み込む。同バレエは1930年10月26日、レニングラードの国立アカデミー劇場(マリインスキー劇場)で初演。指揮はガウク。「タヒチ・トロット」は好評を博し、上演のたびに毎回アンコールされた。
ざっとこんなところだろうか。このうち、1)2)4)5)は疑う余地のない歴史的事実である。3)ははたしてどうか。本当にあった出来事とも、よくできた作り話とも決めかねる。
さあ、そろそろ真打にご登場を願おう。この物語の当事者で、「タヒチ・トロット」の仕掛人と名指しされるニコライ・マリコその人の証言である。
(つづく)