もっと小さな、くだらぬ作品を再現することにもわたしは成功した。ある指揮者の家に客に招かれたときのことである。そのとき、わたしは二十歳を少し過ぎたところだった。レコードがかかっていた。その当時、流行していたフォックストロットのレコードだった。わたしはフォックストロットが気に入ったが、ただ、その演奏は気に入らなかった。
わたしはその家の主人に自分の考えを述べた。すると不意に、彼はわたしにこう言った。「ああ、この演奏がきみには気に入らないのか? いいだろう。もしもお望みなら、いますぐこの曲を思い出して楽譜に書きなさい。それを管弦楽に編曲しなさい。わたしがきみの編曲で演奏しよう。もちろん、きみならそれができるだろう。簡単ではないかもしれないが、一定の時間内にやってもらおう。きみに一時間をあげよう。本当にきみが天才なら、一時間でできるはずだ」。
わたしは四十五分で仕上げた。
言わずと知れた『ショスタコーヴィチの証言』(S・ヴォルコフ編、水野忠夫訳、中央公論社、1980)の一節である。ショスタコーヴィチの歿後間もなく刊行されて、そのショッキングな内容に世界じゅうの愛好家を震撼させたこの本も、四半世紀以上が経過した今では、作曲家自身の真正な「証言」ではなく、本人の執筆記事や発言から真偽不明の噂話まで、種々雑多な材料をこき混ぜて編者が「捏造」したフィクションであるというのが定説となった。
だからこの引用箇所だって信用がならない。とはいえ、ショスタコーヴィチの耳のよさと速書きの才能を物語るには、まさにうってつけの逸話といえるだろう。
『証言』の原書 "Testimony: The Memoirs of Dmitri Shostakovich" がニューヨークの出版社から刊行された1979年の時点で、上に引用した箇所に着目した読者はほとんどいなかったろう。ほかにもっと度肝を抜くような「爆弾発言」がいくつもあったし、そもそもここで話題とされる「ショスタコーヴィチがフォックストロットを編曲した管弦楽曲」なぞ、誰ひとりとして耳にしたことがなかったのだから。
ところが、『証言』の日本語版が出たのと同じ1980年、驚くべきディスクが出現した。エヴゲニー・スヴェトラーノフが指揮するショスタコーヴィチの第九交響曲を収めたそのLP(ビクター VIC-2288)のB面の末尾に、「タヒチ・トロット 作品16」という耳慣れない管弦楽曲が収められていた。演奏時間わずか三分半という小品である。
当時のソ連音楽LPの例に洩れず、ライナーノーツは井上頼豊が書いている。井上はまず、「私は、ゆかいで面白いといったような、気分のいい楽しい音楽を書きたいと望んだ。…私の聴衆が笑うのを、少なくとも微笑するのを見るのは、私にはゆかいだった」という作曲者の回想を引き、これは1920年代のショスタコーヴィチの重要な傾向のひとつだと指摘したうえで、次のように解説している。
この「タヒチ・トロット」も、そうした作曲者の傾向を代表する作品のひとつで、歌劇「鼻」につづいて書かれた。原曲は、1920年代に世界的に大流行したアメリカのミュージカル作曲家ヴィンセント・ユーマンズ(1898-1946)の歌曲 "Tea for Two(二人でお茶を)" で、ショスタコーヴィチはそのオーケストレーションを行っただけであるが、まさに天才的な管弦楽編曲であり、その意味では真の傑作といっても過言ではあるまい。
この編曲は1928年に完成。同年11月25日モスクワ音楽院大ホールで、ニコライ・マルコの指揮、管弦楽は、1928年から1931年まで存在した国立演奏株式会社のソビエト・フィルハーモニーによって初演された。その後どうした理由でか楽譜が紛失し、長年演奏されなかったが、近年、映画音楽「ニュー・バビロン」などとともに楽譜が発見され、このレコードでじつに50年ぶりに日の目を見ることになったわけである。
1975年にショスタコーヴィチが歿したあと、彼が青年時代に手がけ、そのまま刊行されずに埋れてしまった音楽がたて続けに発掘され、蘇演された。管弦楽のためのスケルツォ作品1(1919)、無声映画「新バビロン」の音楽(1928)、アニメ映画「司祭とその下男バルダの物語」の音楽(1934)、そしてこの「タヒチ・トロット」。
永いこと見向きもされなかったこれらの楽曲を各地のアーカイヴから再発見し、演奏可能な形に再構成したのは、ことごとく指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーの功績である。
そのロジェストヴェンスキーが指揮した「ショスタコーヴィチ未出版作品集」(ビクター VIC-2351)という画期的なアルバムが出たのは1982年のこと。当然のことながら、ここにも「タヒチ・トロット」は収録された。そのライナーを引用してみよう。執筆はやはり井上頼豊である。
原曲の「二人でお茶を」は、アメリカのミュージカル作曲家ヴィンセント・ユーマンス(1898-1946)作曲による、1925年初演のミュージカル「ノー、ノー、ナネット!」中のヒット歌曲で、日本でも戦前から知られていた。ロシアではこの曲は「タヒチ・トロット」と呼ばれている。
1928年ショスタコーヴィチは、彼の第1交響曲を初演した指揮者ニコライ・マルコとウクライナ旅行中、この曲のレコードをきいた。マルコがからかって「もし君が、皆のいうほどの天才なら、1時間の間に別室で、今きいた曲を記憶だけで書き、私が指揮できるようにオーケストレーションしなさい」といった。45分後、マルコはショスタコーヴィチから、完成した総譜を受け取ったのだった。
ここで語られるのは、『証言』に収められたエピソードと似通った逸話である。
指揮者のニコライ・マルコ(正確にはマリコ) Nikolai Mal'ko(1883-1961)が冗談半分で新進作曲家を挑発し、レコードから流れてきた音楽をめぐって、二人は賭けを行う。マリコが提示した制限時間が「1時間」、実際に編曲のため要したのが「45分」と、細部までほとんど一致する。ただし、『証言』ではそれが「ある指揮者の家」、すなわちマリコの住むレニングラードでの出来事とするのに対して、井上は「ウクライナ旅行中」のこととして物語る点がはっきり食い違う。
(まだまだつづく)