もうちょっと小倉朗さんのことを書く。
1972年に小倉さんの授業を受けたことはすでに書いたが、本当の楽しみは授業のあと、大学の近くの喫茶店で先生を囲む雑談のひとときだった。授業に出ていた学生は二十人ほどいたが、そのなかで特に熱心だった数人が珈琲を呑みにいく小倉さんのあとにくっついて行ったのだ。
われわれにはまだ小倉さんの偉さはわかっていなかったと思う。肝心の作品をほとんど知らなかったから。でも、鍛え上げたその透徹した音楽観は筋金入りだったし、快刀乱麻に斬り捨てるその厳しい評言にも、「本質のみを語れ」という気迫がみなぎっていた。誰もが強く影響された。
とはいうものの、二十歳そこそこの若者が惹きつけられたのは、何よりもまず、小倉さんの暖かいお人柄だった。音楽好きではあっても所詮は素人であるわれわれに、まるで友人に対するように接してくださり、胸襟を開いて腹蔵なく話された。そのうち藤沢のご自宅にもうかがい、そのまま図々しく泊まっていくこともしばしば。その頃、小倉さんはパステル画を描くことに熱中しておられたので、口さがない学生たちは、「この自画像はなかなかよく描けていますね」などと批評したりした。
あれだけ同業者に厳しい小倉さんが、私淑した先輩である深井史郎のことを、それこそ例外的に、口を極めて絶賛していたことは忘れられない。授業でも「パロディ的な四楽章」のレコードをかけ、「深井史郎ほど腕のたつ作曲家はいない、なにしろ凄い博識で、しかも耳が良かった」と、その早世を惜しんでおられた。
自分の作品をわれわれに聴かせることにはさほど頓着せず、「君たちが(自作よりも)まず僕という人間に興味をもってくれたのが嬉しい」と言ってくださったのも忘れられない。
そんなわけで、実際に作品を通して小倉朗の本当の凄さを知ったのはずいぶんあと。1978年の4月、二夜にわたる「小倉朗 交響作品展」で、おもだったオーケストラ曲をあらかた聴いたときが最初だった。
4月1日 東京文化会館
交響組曲 (1941)
日本民謡による5楽章 (1957)*
オーケストラのためのブルレスク (1959)*
交響曲 ト調 (1968)*
4月26日 日比谷公会堂
オーケストラのための舞踊組曲 (1953)
ヴァイオリン協奏曲 (1971)
弦楽合奏のためのコンポジション (1972)*
オーケストラのためのコンポジション (1975)*
芥川也寸志/新交響楽団 (第79、80回演奏会)、都河和彦(vn)
この二日間の演奏会は画期的だった。空前絶後だといってよい。順番に聴いていると、小倉さんのそれまでの歩みがおのずと実感され、それがいかに一貫した道筋かがわかる…という稀有な体験だった。小倉さんご自身も、「自分の作品だけのコンサートなんて夢のよう、芥川のお蔭だ」とおっしゃっていたほどだ。幸いなことに、両夜の演奏はライヴ・レコーディングされ、その過半(*印のもの)は今でもCDで聴くことができる(フォンテック FOCD-3273)。
晩年、病気がちになられ、作曲もできず、塞ぎ込んでしまわれた小倉さんは、「自分はもう誰からも忘れ去られてしまった」と悲観されていたと聞く。痛ましいことだ。
小倉先生、そんなことはないですよ、今でも忘れてなんかいませんよ、と昨日の演奏会を聴きながら、心のなかで何度もそう呼びかけた。