今日も東京へ出向くつもりだったが、なんとなく在宅のまま過ごすことになった。家人も休暇を取ったとかで、終日のんびり読書とCD鑑賞で穏やかに日暮らし。
夕方、散歩がてら外出したので、そのまま足をのばして近所のシネコンへ。意を決してクリント・イーストウッドの「硫黄島」二部作の第一弾「父親たちの星条旗」を観ることにする。数日前に会った妹が口を極めて絶賛していた映画だ。
これから観る方のためにあえて詳述は控えるが、これは想像を絶する作品である。そもそもこのフィルムは、戦争映画というジャンルに収まりきれないものだ。苛烈な戦闘場面だけみれば、これぞ映画史上屈指の戦争映画だといいたくなるが、聡明なイーストウッドはさらにその先を目指すのである。
イーストウッドの眼差しは、肉片はじけ散る硫黄島のむごたらしい戦場と、それに優るとも劣らずファナティックな「銃後」のアメリカ社会とを、縦横に行き来する。その度重なる往還運動によって、彼は「アメリカ人にとって戦争とはなんだったのか」を厳粛に、沈着に、執拗に問いかける。2006年の今もアメリカは「戦時下」であることを鑑みれば、この問いかけの重さはほとんど計り知れない。なんのための戦争か、なんのための忠誠か、なんのための死か。
この映画には主役がいない。戦場ではほとんど誰が誰だか区別がつかぬほどだ。名もない一兵卒からトルーマン大統領まで、すべての登場人物が等しなみに戦時社会の一齣として、いわばデモクラティックに点綴され、その長く果てしない連鎖の彼方に、国家という壮大なフィクションが浮かび上がる。「見よ、これがアメリカだ!」とばかりに。
聡明なうえに聡明なイーストウッドは、この到達点からさらにそのまた先へと果敢に歩を進めようとする。もう一本の映画「硫黄島からの手紙」こそが、そうした所産となるであろう。