江古田で用事を済ませたあと、西武線で池袋へ。昨日に引き続き「パシフィック・クロッシング」のグレインジャー特集、今日は英国の記録映画(TV番組)「高潔な野人」の上映会である。
会場は同じ自由学園明日館、ただし講堂ではなく本館の建物の一室(かつての教室)。ライト自らが設計したほうの建物で、窓枠や照明器具や各処の木組みなども当初のまま。そこに身を置いただけで、思わず居ずまいを正したくなるような特別な空間だ。
高潔な野人 Noble Savage
1986 Central Independent Television(イギリス)
監督/バリー・ギャヴィン Barrie Gavin
出演/
サイモン・ラトル Simon Rattle(指揮者)
リチャード&ジョン・コンティグリア Richard & John Contiguglia(ピアニスト)
ロナルド・スティーヴンソン Ronald Stevenson(ピアニスト、作曲家)
イヴィー・オルドリッジ Evie Aldridge(義理の従姉妹)
バーネット・クロス Burnett Cross(フリー・ミュージック協力者)
ジョン・バード John Bird(評伝作者)
テリーザ・バロウ Teresa Balough(研究家) ほか
「高潔な野人」というタイトル自体が物語るように、パーシー・グレインジャーは矛盾に満ちた存在である。この映画は複雑に入り組んだグレインジャーの相貌をひとつひとつ丹念に解きほぐし、生前の彼を知る人々や、その音楽に深くかかわった演奏家たちのコメントを手際よく援用することで、一人のかけがえのない芸術家の実像に能うる限り近づこうとする。その誠実な製作態度にまず心打たれる。
先日観た伝記映画「パッション」がスキャンダラスな性生活に拘泥しすぎてグレインジャーの全体像を捉えそこなっていたのに比べ、こちらは淡々とファクトを積み重ねていくうちに、観る者の脳裏に立体的な映像をホログラムのように浮かび上がらせる。すぐれて喚起力に満ちたフィルムなのである。
無字幕なので、そのすべてが理解できたわけではないが、登場人物のコメントがたいそう示唆に富む。とりわけサイモン・ラトルの発言が的を射ているように思えた。彼はグレインジャーは碧眼金髪の北欧人種の優越を説く偏見の持ち主だと述べたあと、同時に彼がユダヤ人とも親しく交遊し、世界じゅうの音楽をひとしなみに愛好する平等主義者でもあって、そこには大きな矛盾があると喝破する。その矛盾こそがグレインジャーの尽きせぬ魅力なのだ、と言いたげだ。
ラトルは後年きわめて優れたグレインジャー・アルバムを録音するのだが、この映画でも手兵バーミンガム市響とともに「シェパーズ・ヘイ」「カントリー・ガーデンズ」「鐘の谷」「列車音楽」などを指揮する姿が頻出する(どれもたいへんな名演)。
そのラトルがグレインジャー最大の管弦楽曲たる「戦士たち」を指揮する場面で、この映画の監督は大胆にもレニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」の映像をインサートし、アフリカ原住民の映像やらゴーギャンの絵やらをモンタージュして提示する。このあたりが、本作の白眉であり、グレインジャーとリーフェンシュタールを平行現象と捉えるという魅力的な仮説へと、観る者の想像力を刺激してやまない。白人の優位を信じつつも、ヌバ族の生活に魅せられていくリーフェンシュタールはたしかに「もう一人のグレインジャー」だったかもしれないのだ。
忘れずに付け加えておくと、生前のグレインジャーの動く姿がいくつか観られるのがなにより嬉しい。若い頃のピアノ演奏はさすがにサイレントだが、晩年BBCのスタジオでグリーグを弾くTV映像や、私生活の一齣を捉えた映像などには、不覚にも涙を禁じえなかった。
いつの日か、字幕の入った形で、もう一度じっくり見直してみたい。