今日は用事を早々に切り上げて、池袋の自由学園明日館(みょうにちかん)へ急ぐ。もう周囲は暗くなっていたが、駅前の喧騒を抜けて、裏通りへ入ると時間が急速に逆戻りしていくのが肌で感じられる。五分ほど歩くと、1920年代の静謐な佇まいがたちこめる不思議な一郭が現れる。
昔、このあたりを自転車で走っていて、偶然にこの場所を発見したときには心底驚いた。フランク・ロイド・ライトの建物がこんなところに残っているなんて、まさに奇蹟としかいいようがない。しかも創立時のキャンパスの雰囲気を今なお濃厚に漂わせているのだ。こんなところでパーシー・グレインジャーを聴けるなんて、人生も捨てたもんじゃないという気がする。
コンサートの会場はライトの建物と道を隔てて向かい側に立つ明日館講堂。こちらは弟子の遠藤新の設計とのことだが、素人目にはライトその人の建物としか見えない。シンプルななかに適度な飾り気のある、木造の素晴らしいホール。ここに入っただけで芸術的感興にうたれる、そんな空間だ。開演前のひととき、チャールズ・アマーカニアンの環境音楽「ウォーキング・チューン(パーシー・グレインジャーのためのルーム・ミュージック)」のCDが静かに流れる趣向も心憎い。
「パシフィック・クロッシング:よみがえるパーシー・グレインジャー物語」コンサート初日の今日は、実に盛り沢山の演目が組まれている。
1) ウォーキング・チューン
2) おお、今こそ別れねばならぬ
3) コロニアル・ソング
4) 動かないドの音(鳴り続けるC音)
5) 「アイルランド舞曲」より リール
6) ウィロウ、ウィロウ
7) ある朝早く
8) タイムの小枝
9) 放埓者のウィリアム・テイラー
10) フリー・ミュージック・マシーンのための音楽(グレインジャー自身の録音)
11) フリー・ミュージック Ⅰ(四台のテルミンのための)
12) スプーン・リヴァー
13) 子供の行進曲(丘を越えて遙かに)
14) ケルティック・セット(グレインジャーのためにヘンリー・カウエルが作曲)
15) ジョージ・ガーシュウィンの「ポーギーとベス」による幻想曲
ピアノ=サラ・ケイヒル (2、4、6~9、12~15)
ジョーゼフ・クベーラ (1、3、5、12~15)
テノール=辻裕久 (6~9)
テルミン=VM (11)
前半がピアノ一台による民謡色の強い楽曲と、ピアノ伴奏歌曲。後半は実験的な作品および二台ピアノ用の作品という、よく考え抜かれた構成である。どの曲もさんざんCDで聴き込んだ馴染みの音楽なのだが、こうして生演奏で耳にすると、初めて出逢ったときのような新鮮なときめきが味わえるのが何よりも嬉しい。
特別に用意されたベーゼンドルファーがたいそう豊かに響く。木造の会場のアコースティックも耳に心地よい。そして、なんといっても二人のピアニストがグレインジャーを熟知しているのが心強い。強靱なフォルティッシモや豊饒な和音を存分に響かせること、それこそがグレインジャーに欠かせない要素であることを、今日のピアノ演奏は明瞭に物語っていた。過剰ともいえる生命力の発露こそがグレインジャー演奏のカナメなのだ、と。以前に生で聴いた柴野さつきさんのピアノにはそれが不足していたようだ。
第一部後半の四曲の歌曲は、ちょっと上品すぎたきらいはあるが、辻さんの英語のディクションはさすがに美しくて惚れ惚れする。「ある朝早く」はメロディだけきくと平明で心楽しい民謡に思えてしまうのだが、その歌詞は痛切な悲しみに満ちている。グレインジャーはそのピアノ伴奏部に胸をしめつけるような寂寞感を付与したのだが、ここでのケイヒルさんの演奏は玄妙かつ繊細。見事というほかなかった。
後半ではまず、自作楽器「フリー・ミュージック・マシーン」をグレインジャー自身が操作した古い録音を聴いたあと、テルミン四台による「フリー・ミュージック 第一番」が演奏された(一分ちょっとの小品なので二度繰り返して)。若い奏者たちはえらく緊張した様子で、小生は五年前に日本初演されたときのリラックスした演奏(やの雪+赤城忠治+室岡千明+宮澤淳一)のほうがずっと楽しめた。
今日の締めくくりは二台ピアノのための楽曲。先に述べたグレインジャーの生命感の発露はこのジャンルでこそ端的に表れるように思う。ケイヒル&クベーラのドゥオは(ちょっと危なっかしい箇所もあったけれど)縦横無尽に弾ききってくれた。最後の「ポーギーとベス」では、ガーシュウィン・メロディの過剰なまでの奔流とグレインジャーの豊饒な和音がひとつに溶け合って恍惚境へと導く、圧倒的な名演となった。
素晴らしい。生で聴くグレインジャーの醍醐味を心ゆくまで楽しんだ。