所用で東京へ出たついでに東横線の祐天寺で下車。夕方この街でピアノ・リサイタルがあるのだ。会場は聖パウロ教会とのことだが、このあたりは全く不案内で、うっかり反対方向へと歩を進めてしまった。
どうも方角が違うぞ、と引き返そうとしたところを呼びとめられる。数年前、美術書の仕事でご一緒したことのある編集者の島本脩二さんだ。あまりの奇遇に驚いたが、島本さんはこの近くにお住まいで、ちょうど奥様と近所をお散歩中だったそうな。しばらく立ち話で互いの近況報告。くだんの教会への道順を教えていただいた。
ピアノの演奏会に行くことは滅多にないのだが、モスクワ在住の若いピアニスト、宮﨑朋菜さんが久しぶりに帰国してリサイタルを開くというので、興味をそそられたのだ。彼女はロシア音楽全般に加え、リトアニアの作曲家チュルリョーニスを得意とする稀有な存在だ。そのセカンド・アルバムで披露されたチュルリョーニスの演奏が見事だったので、一度生を聴いてみたいと思っていた。今回組まれたのはオール・バッハ・プロなので、ちょっと当て外れではあるのだが、聴き逃がすには惜しい機会なので、足を運んでみたのである。
「メモリア Memoria~永久の祈りをこめて」と題されたプログラムは以下のとおり。
01 前奏曲~オルガンのための小前奏曲とフーガ(バッハ=カバレフスキー編曲)
02 「主よ、人の望みの喜びよ」~BWV147より(バッハ=マイラ・ヘス編曲)
03 協奏曲 BWV972(ヴィヴァルディ=バッハ編曲)
04 トッカータ BWV914(バッハ)
05 アヴェ・マリア~平均律クラフィア曲集第一巻より(バッハ=グノー編曲)
06 コラール前奏曲「主よ、われ汝を呼ぶ」 BWV639(バッハ=ブゾーニ編曲)
07 前奏曲~「ブラジル風バッハ」第四番より(ヴィラ=ロボス)
08 シャコンヌ~無伴奏vnパルティータ BWV1004より(バッハ=ブゾーニ編曲)
encore 前奏曲(バッハ=ジロティ編曲) 【推定】
休憩を挟んで正味一時間ほどだったが、ご覧のとおり、とても周到に練られたプログラムだ。純然たるバッハ作品はトッカータ一曲だけ。とはいえ、そもそもピアノでバッハを弾くこと自体が一種の編曲行為なのだから、すべてがバッハを基点とする変奏曲といえなくもない。にもかかわらず、聴こえてくる音の彼方にはつねにバッハの雄大な姿が仰ぎ見られる、という印象が強烈にあった。旧い言い草で恐縮だが、やはりバッハは小川(Bach)でなく大河なのだ、と実感。
宮﨑さんは緊張からか、前半ちょっと堅くなられたようだが、03の途中あたりからこわばりが解けて、硬質な音色はそのままに柔軟な音楽へと結実していった。
今回の白眉は間違いなく08のシャコンヌ。峻厳にしてロマンティックなバッハ=ブゾーニの特質がごく自然に表出され、感動的なフィナーレへと導かれた。アンコールに奏された小品は、アナウンスはされなかったが、彼女がモスクワでカステルスキー教授に習ったというジロティ編曲の前奏曲に違いない。心のこもった秀演だった。
リサイタルが七時半に終わってしまったので、先ほどお会いした島本さんのお宅にちょっと立ち寄る。夕飯をご馳走になったうえ、あれこれ言いたい放題しゃべったので、さぞや図々しい奴だと思われたろう。まあ、そのとおりだから仕方ないのだが。