1970年の春から夏にかけて、日本のクラシック音楽ファンは嬉しい悲鳴の連続だった。折りから開催中の大阪万博にあわせて、世界各国から著名なオーケストラが大挙して来日したのである。こんなことはそれまで一度もあったためしがない。
ドイツからはカラヤン率いる絶頂期のベルリン・フィル。
フランスからはプレートルとボドが振るパリ管弦楽団(ミュンシュは二年前に急逝)。
イギリスからはバルビローリ指揮のニュー・フィルハーモニア管弦楽団。
ソ連からは待望久しいムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィル。
アメリカからはセルとブーレーズが分担して振るクリーヴランド管弦楽団。
同じくアメリカからバーンスタイン指揮のニューヨーク・フィル。
カナダからはフランツ=パウル・デッカー指揮のモントリオール交響楽団。
ポーランドからは名匠ロヴィツキ率いるワルシャワ・フィル。
このほか室内アンサンブルとしてドイツ・バッハ・ゾリステン、パイヤール室内管弦楽団、イギリス室内管弦楽団、ローマ合奏団も来日。加えてベルリン・ドイツ・オペラ、ボリショイ・オペラ、さらには「幻のピアニスト」リヒテルも初来日、とまあ、凄まじいラッシュに狂喜乱舞しつつも、これでは財布がいくつあっても足りっこない。
もっとも、確実視されていたムラヴィンスキーは「急病のため」来日中止となり(代役はアルヴィト・ヤンソンス)、初来日のバルビローリは出発直前に急逝(代わりにプリッチャードが来日)、元気そうだったセルは帰国後すぐに病歿するなど、まことに悲喜こもごもの半年間でもあったのである。
ところでこの「クラシック音楽の万博」に、とうとうスイスは自国のオーケストラを送ることができなかった。国際的な知名度をもつ唯一の団体たるジュネーヴのスイス・ロマンド管弦楽団は、創立者で常任指揮者のアンセルメが1969年に世を去ってから急速に威力と名声を失いつつあった。さりとて、ベルンやルガーノのオーケストラでは、並みいる他国の団体に太刀打ちできそうにない。
そこで白羽の矢が立ったのが、パウル・ザッハー率いる二つの室内オーケストラ(バーゼルとチューリヒ)だった。どちらであっても名声・実績とも申し分ないはずだ。ところがザッハーの楽団のメンバーは他のオーケストラと兼任する者が多く、どうしても来日スケジュールの調整がつかなかったのだという。
そこでスイスは苦肉の策に打って出る。フルートのオーレル・ニコレとソプラノのリーザ・デラ・カーサ、それに指揮者の三人だけを日本に派遣し、あとは「現地調達」するというのだ。すなわち、読売日本交響楽団をいわば「スイスのオーケストラ」に見立て、無名同然の若手指揮者に特訓させる。青年の名はシャルル・デュトワといった。
(つづく)