ラミュがフランス語に翻案し、脱ロシア化して無国籍の存在へと変えた兵士は、いよいよ極東の地に降り立ち、見知らぬ風景のなかをとぼとぼと歩み始める。
歩き疲れた
埃だらけの一人の兵士
やっと貰った十日の休み
ふるさと指して
まだまだ歩く、朝から晩まで歩く
重い脚を引きずり引きずり
故郷を指して歩く、歩く (観世栄夫の脚色台本より)
冒頭の「兵士の行進曲」にあわせ、「語り手」が繰り出すその口調にはいささか驚いた。なんというか、ゆったり、もっさりとしていて、まるきり音楽に乗らないのだ。聴きなれたコクトーのリズミカルな口調とのあまりの違いように、正直言って先行きが心配になる。
この「語り手」を務めるのは観世栄夫(ひでお)。能楽師の「観世三兄弟」の次男だが、現代劇の演出や映画出演(「砂の女」「鉄輪」ほか)など、ジャンルを越えた目覚ましい活躍で知られる。当レコーディングでは脚色・演出も受け持ち、そのうえ兵士役まで兼ねている。このとき43歳。
対する悪魔役は観世寿夫(ひさお)。栄夫の兄であり、「世阿弥の再来」とまで称えられた天才的な能楽師。彼もまたジャンルを横断する演劇人で、パリに渡ってジャン=ルイ・バローに師事したほか、「オイディプース王」「バッコスの信女」などギリシア古典劇にも主演した。録音時には45歳だが、7年後に癌で急逝してしまう。(これは余談だが、小生は最晩年の寿夫が舞う夢幻能「定家」をたしかに観たのだが、もったいなくも居眠りしてしまった…。)
栄夫の語り口調は能の謡とも違うし、新劇俳優の台詞回しとも明らかに異なる。
やがて兵士の台詞になり、寿夫の悪魔が登場して二人の掛け合いになると、ようやく興が乗ってきたのか、丁々発止のやりとりに弾みがつく。寿夫のいかにも悪魔めいた、ときに慇懃で小心、ときに辛辣で狡猾な口ぶりがたいそうよい!
このディスクではどうやら、ストラヴィンスキーの音楽が絡まない独立した会話部分に、最良の聴きどころがあるようだ。二人のしゃべりはむしろ、彼らの「素」である江戸っ子言葉、「べらんめえ」「てやんでえ」調に近いかもしれない。
それならばいっそ、思い切ってテクストを日本風に翻案して、兵士を素浪人に、悪魔を天狗に変え、例の冒頭の語り「ダンジュ村からドゥヌジー村へ」のくだりなど、
日の出村から檜原(ひのはら)村へ (武蔵国ヴァージョン) とか、
酒々井(しすい)の里から芝山(しばやま)郷へ (下総国ヴァージョン) とか、
いっそこれくらい改変して遊んでくれてもよかったのに…と、これは三十数年のちの望蜀の嘆である。