1918年9月28日、ローザンヌ市立劇場で「兵士の物語」は初演された。
この歴史的な企てにかかわったスタッフ、キャストは以下のとおりである。
台本/シャルル=フェルディナン・ラミュ
作曲/イーゴリ・ストラヴィンスキー
装置・衣裳/ルネ・オーベルジョノワ
演出/ジョルジュ&リュドミラ・ピトエフ
指揮/エルネスト・アンセルメ
語り手/エリー・ガニュバン
兵士/ガブリエル・ロセ
悪魔/ジャン・ヴィラール(通称ジル)およびジョルジュ・ピトエフ [マイムのみ]
皇女/リュドミラ・ピトエフ [マイムのみ]
演出と出演の二役を務めたピトエフ夫妻は亡命ロシア人。のちにパリに進出し、ヴィユ・コロンビエ座を拠点として活躍することになるが、当時はまだ無名同然で、ジュネーヴでひっそりと暮らしていた。
アンセルメはストラヴィンスキーが最も信頼を寄せていたスイスの指揮者。そもそもラミュとストラヴィンスキーを引き合わせたのはこのアンセルメだった。
奏者たちは、チューリヒやジュネーヴからアンセルメが招集した腕利き揃い。
舞台美術を担当したオーベルジョノワはスイスの画家で、ラミュの親友。
「語り手」と、台詞のある兵士役と悪魔役とは、ローザンヌ大学の教師と学生のなかから適任者を探してきたという。
ラミュもストラヴィンスキーも、当初は「旅回りの田舎芝居」としてスイス各地を巡業する形を願ったのだが、結局その夢は叶わず、芸術愛好家の富豪ヴェルナー・ラインハルトの力添えで、大都会の「立派な」劇場での初演と相成ったのである。
舞台の中央には、いかにもドサ回りの一座といった風情のテント小屋があり、芝居はもっぱらここで繰り広げられる。
この劇場にはオーケストラ用のピットも備わっていたのだが、指揮者と七人の奏者たちはあえてここには入らず、舞台の下手(向かって左方)に陣取った。「音楽を理解するには演奏家の動く姿を観るのが不可欠」とするストラヴィンスキーの主張が通った形である。そして上手には、物語をつかさどる「語り手」が位置する。ただし、彼は芝居の進行に応じて、舞台のあちこちへと移動したらしい。
1918年という年代を考えるならば、この上演形態はすこぶる新奇なものだったはずだ。「赤テント」「黒テント」はいうに及ばず、メイエルホリドの演劇理論もブレヒトの異化効果もまだ存在しない時期に、これだけの大胆不敵な実験が試みられたことに、驚きを禁じえない。
かかわった当事者たちは後年、この公演は「成功だった」と異口同音に回想する。客席は着飾った招待客の紳士淑女たちで埋まり、そこそこの拍手喝采が巻き起こったのだという。本当にそうだったのか? 戸惑いや反撥はなかったのだろうか?
前述したように、ラミュとストラヴィンスキーは、このローザンヌ初演の「成功」をバネに、一座とともにスイス各地の劇場を巡業して回る心づもりだったのだが、折悪しくヨーロッパを襲ったスペイン風邪の大流行がそれを不可能にした。ささやかな「旅回り興行」の企ては、はかなくも、たった一晩の夢と消えてしまったのである。