改めて紹介するまでもなかろうが、わが国でのシャーロッキアーナ本の始祖とされる古典的名著である。
著者の長沼弘毅(1906~1977)は戦前から長く大蔵官僚を務める傍ら、趣味で探偵小説の奥義を極め、官界を離れてからはアガサ・クリスティの翻訳や、シャーロック・ホームズ研究に打ち込んだ人物である。その名は世界的に知られ、米国の愛好研究団体「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」の日本で唯一の正会員として令名を馳せた。
長沼にはこのほか宇野浩二や和漢詩集についての著述もあり、経済学博士として最低賃金を論ずる傍ら、柔道七段の段位を有するという、明治生まれらしい文武両面に秀でた大人(たいじん)だった。
彼にはシャーロック・ホームズの名を冠した著作が全部で九冊あり、本書の前にも朝日新聞社から『シャーロック・ホームズの知恵』が出ているが、そちらはいわば入門編であり、本格的にシャーロック・ホームズ学、すなわちコナン・ドイルの作中人物を実在の探偵と看做して仔細に詮索し、蘊蓄を傾ける「シャーロッキアーナ」なるジャンルの本は、日本ではこの『シャーロック・ホームズの世界』をもって嚆矢とする。
かつてシャーロック・ホームズを愛読した頃、長沼のシャーロッキアーナ本は杉並や練馬の図書館で借りてあらかた読んだ。これらの著作には当時(1970~80年代)それなりに古書価がついており、貧書生においそれと手が出せる値段ではなかったのである。
最近たまたま状態のよい一冊が妥当な価格で某オークションに出ていたので、懐かしさも手伝って落札してしまった。目次を紹介しておこう。
第一章 ホームズの演出振り
第二章 ホームズとコカイン
第三章 ホームズと変装
第四章 ホームズと通信
第五章 ホームズとピストル
第六章 医学博士ワトスン
第七章 医師としてのワトスン
第八章 ハドスン夫人
第九章 酒場シャーロック・ホームズ
これで大体の中身が知られるであろう。ついでに帯の惹句を書き写そう。
日本有数のシャーロッキアンである筆者が
名探偵シャーロック・ホームズを実在の人
物として扱う珍しい研究に取り組み「ホー
ムズの人間とその周囲」を究めつくした!
わざわざ「シャーロッキアーナ」を「珍しい研究」と称しているのが面白い。当時まだ類書がなかったのだから当然なのだが。その下に小さくダメ押しで「欧米の研究水準を越える緻密な労作」と補ってある。
なるべく状態のよい一冊をぜひ架蔵したかった理由は、本書の装丁を若き日の伊丹十三(当時の名は伊丹一三)が手がけているからである。
彼はカヴァー装画、本体の表紙絵、見返しデザインのすべてを担当しており、とりわけカヴァー画が見事な出来ばえである。題して「ホームズ年代のロンドン・ストランド街」。お馴染の綿密精確なスタイルのペン画で、往時の風景がモノクロでくっきり鮮明に浮かび上がる。
追記)
試みにネット上で画像検索してみたら、伊丹が手本とした元の写真がいとも簡単に判明した。1900年頃のストランド街とある。→これ