昨日の思い出話の続きなのだが、2001年1月、わざわざ好き好んで厳寒の地に赴いたのには理由がある。
美術館に奉職していた小生は、悲願である日本初のカジミール・マレーヴィチ回顧展を実現すべく、その可能性を探るために、モスクワ、ペテルブルグ、ハンブルク、パリを駆け足で廻ったのだ。いずれも稀少なマレーヴィチの「スプレマチズム絵画」を常設展示する美術館が立地している。附言しておくと、スプレマチズム絵画とはマレーヴィチが創始した史上初の完全な抽象絵画のことである。小生の在籍館はわが国で唯一、そのスプレマチズム絵画の所蔵館なので、ぜひとも展覧会をやりたいと切望していたのだ。
研究者なら誰もが知るとおり、サンクト・ペテルブルグの国立ロシア美術館はマレーヴィチ作品の世界最大のコレクションを擁している。ちょうどこの時期、数十点からなるそのすべてを展観する展覧会を催すとの情報を聞きつけ、志を同じくする東京新聞の森要造さんとまず展覧会を一緒に観て、その足でロシア美術館の副館長に面会するという段取りだったのだ。...
多忙な森さんは別件でヨーロッパ各地を歴訪中であり、ペテルブルグには小生が先着し、予め展覧会を仔細に観ておいてほしい、という話だったと思う。わざわざ真冬に単身ペテルブルグに乗り込んだのは、そういう理由からである。
催されていた展覧会は実に素晴らしい内容だった。印象派風の初期作品からプリミティヴィスム、立体未来派を経てスプレマチズムへ、さらには具象に回帰してからの不可思議な作品群まで。カジミール・マレーヴィチの生涯のすべてがそこにあった。ロシア美術館からまとまった数の作品が借りられるか否かが、われらが展覧会の成否を握る鍵であるのは明らかだった。
加えてロシア美術館は近くにある別館で「マレーヴィチのサークルで В круге Малевича」と称する別の展覧会も同時に開催しており、エルモラーエワ、ユージン、スエチン、ヒデケリら、スプレマチズムの忠実な追随者たちの稀少な作品がおびただしく並んでいた。
こちらの展覧会はろくに宣伝もされず、訪れる者も稀だったらしく、殺風景な展示室は閑散として小生のほか観覧者はひとりもいなかった。カリズマ的な巨匠を信奉し、どこまでも付き従ったエピゴーネンたちの不遇な運命(ある者は逮捕され獄死し、別の者は貧窮のなか人知れず歿した)を思うと、背筋が凍りつきそうだった。手が無感覚になるほど冷え切った館内の寒さも忘れがたい。
翌日、ロシア美術館の副館長との面談は予想以上に友好的に進み、この調子ならば日本でも展覧会が開催できそうだとの好感触を摑んだ(結局それは糠喜びに終わるのだが)。
東京新聞の森さんとはそこで別れ、小生はハンブルク、デュッセルドルフ、そしてパリへと駆け足で廻った。
旅のさなか留守宅から実母が重病で倒れたとの急報が入ったのだが、心を鬼にして旅をそのまま続行した。今から考えると、どうかと思う非情な判断なのだが、それだけ展覧会の実現に必死だったのだろう。
身も心も憔悴しきってパリに辿り着き、ポンピドゥー・センターでマレーヴィチの《黒い十字形》を実見すると、旅のミッションは終了した。
そのあと、さしたる目的もないままオルセー美術館に足を運んだら、思いもよらず「ニジンスキー展」と「チュルリョーニス展」の同時開催に出くわしたのは望外の倖せというべきか。天からのご褒美だと難有く受け止めた。
何冊もの分厚い展覧会カタログで帰路の旅行鞄がずしり持ち重りした。