この《サルヴァトール・ムンディ》は現物を間近に観たことがある。
2012年1月、ロンドンのナショナル・ギャラリーで開催中のレオナルド回顧展に、「新発見の真作」「驚くべき出現」との触れ込みで展示されていたのである。
たまたまプロコフィエフ・フェスティヴァルを聴きに渡英中だったので、うんと早起きして、真冬のロンドンで当日券の行列に五時間も並んだのである(日時指定券はとっくに売り切れていた)。
このレオナルド展には数多くの素描の逸品とともに、彼の真作とされるタブロー作品が十点(現存点数の過半数)も並ぶというのが評判となった。
■ 若者の肖像(音楽家) ミラノ、アンブロジアーナ絵画館
■ チェチリア・ガッレラーニの肖像(白貂を抱く女性) クラクフ国立美術館
■ 婦人の肖像(ベル・フェロニエール) ルーヴル美術館
■ 聖ヒエロニムス ヴァティカーノ絵画館
■ 岩窟の聖母 ルーヴル美術館
■ 岩窟の聖母 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
■ リッタの聖母子 サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館
■ 聖アンナと聖母子(カルトン) ロンドン、ナショナル・ギャラリー
■ 糸巻きの聖母子 スコットランド、バクルー公爵家
■ サルヴァトール・ムンディ 個人蔵
パリとロンドンの二つの《岩窟の聖母》が同じ部屋に並ぶという夢のような展示に、心ときめく思いだったが、ロンドンの観客の間では、ポーランドから来た《チェチリア・ガッレラーニ》(カタログの表紙になった)と、「新発見」の呼び物《サルヴァトール・ムンディ》の二作品がとりわけ評判になっていたように記憶する。
さてその《サルヴァトール・ムンディ》だが、一見した印象は「これが本当にレオナルドの真作なのか?」というものだ。なんというか、画面全体に力がなく、きわめて影の薄い、存在感が希薄な作品に思えた。色調は精彩と輝きをまるで欠き、くすんで沈んだ調子に終始しており、あたかもモノクローム作品のように見えた。
絵の前でかなり時間をかけ、じっくり凝視したが、最初の感想は少しも変わらなかった。
キリストの顔には生気がなく、まるで亡霊のようで薄気味悪いし、衣裳の襞の扱いにレオナルドらしい技量の冴えがみられず、随所でもたついている。左手に持った水晶の玉の描写にも、水際立った手腕が発揮されておらず、いつもの科学者らしい鋭い観察眼はさほど認められない。
唯一この絵でレオナルドらしさが感じられるのは、祝福の仕草で掲げられたキリストの右手の描写だ。ここには例えばルーヴルの《洗礼者ヨハネ》に近い技巧が認められるが、それとても《チェチリア・ガッレラーニ》の手にみる息を呑む迫真性とは程遠い。
これはレオナルドの真作でないか、もし真作だとしても、全面的にひどく傷んだ作品か、そのいずれかだろうという気が強くした。とにかく、これは展覧会で目にした上述の十作品のなかで、最も印象の希薄な絵画だった。レオナルドならではの呪縛的なオーラがまるで備わっていない。同じく真筆性が疑わしい《糸巻きの聖母》のほうが、まだしもレオナルドらしい精妙さと気品を漂わせているではないか。
こんな弱々しい作品を展覧会に並べるなんて、主催者の見識が疑われるではないか――そんな憤りすら憶えつつ展示室を後にしたものだ。
これだったら、もう一点の「新発見」レオナルドとして喧伝された話題作《美しき姫君 La Bella Principessa》のほうを展示してほしかった。羊皮紙に描かれたこの作品は、真作とも後世の贋作とも研究者の間で意見が分かれ、美術館としては「疑わしきは出品せず」の事なかれ主義に与し、まだしも来歴の辿れる《サルヴァトール・ムンディ》のほうを選択したのだろう。
とにかく五年前のこのナショナル・ギャラリーでの展覧会に《サルヴァトール・ムンディ》は晴れがましくもレオナルドの真作として展示され、いわば権威ある「お墨付き」を頂戴した。それを踏まえたうえでの今回のオークション出品である。
こうなってしまうともう今後、誰も口出しできなくなる。購入者は作品の真筆性をなんとしても擁護するだろうし、やがて、評価額510億円の絵がレオナルドの真作でないはずがない――そういう逆立ちした論法すら、まかり通りかねないからだ。