グレ=シュール=ロワンは人影もまばらな寒村だった。ディーリアス家はそのささやかなメイン・ストリートに面したところにある。建物の裏手には、ディーリアス夫人イェルカが丹精こめて世話してきた庭園が拡がっているが、ディーリアスはもうその美しい光景を見ることができないのだ。
グレに到着したフェンビーは、さっそく夫人の案内でディーリアスの音楽室に招き入れられた。「主人の傑作はどれもみな、この部屋から生まれたのよ」
それはなんとも形容しがたい陰気な部屋だった。薄暗がりのなか、黄色い壁に並ぶ油絵(イェルカ夫人の作品)はどれも不快なピンク色で彩られていた。部屋の中央には弾き手を失ったグランド・ピアノ、そしてその背後ではタヒチの女を描いたゴーギャンの油絵がなんとも不気味な妖気を漂わせている。ここが自分の仕事場になるのだと考えると、フェンビーは暗澹たる気持ちになった。
ほどなくディーリアスとの初対面のときがやってきた。
居間に入ると、そこには幽霊のように青白く痩せ細った老人が坐っていた。
「こちらへおいで、フェンビー、会えて嬉しいよ」。ディーリアスはどうやら上機嫌の様子だった。この22歳の青年が自分と同じヨークシャー出身で、音楽を独習したというのが気に入ったようだ(彼はアカデミックな教育を忌み嫌っていた)。
会話は和やかに進んでいった。ところがフェンビーが「イギリス音楽」という言葉を口にした途端、その場の空気は一変した。「イギリス音楽? 君は今、イギリス音楽と言ったね。ふん、そんなものはついぞ聴いたこともないね」。吐き捨てるように言い放つなり、ディーリアスは押し黙ってしまった。
頑固で身勝手な老人。わがままな暴君。それがディーリアスだった。この家ではすべてが彼を中心に動いており、その意に沿わないものは容赦されない。彼はスープが薄味だといっては怒り、食器が音をたてたといっては癇癪を起こす。夫人をはじめ、ここでは誰もがまるで腫れ物にでも触るようにディーリアスに接していた。もっとも彼の体は至るところ蝕まれていて、風に当たっただけで痛みを覚えるほどだったから、その振舞もある程度は大目に見てやるべきかもしれない。
数日後、作曲の口述筆記が開始された。ディーリアスが旋律を歌い、フェンビーがそれを五線譜に書き写していくという、気の遠くなるような作業だ。
「タータター、タータター、タータター、書き留めたまえ! タータタタター、タータター、タター……」
耳障りな大声、しかもそれは高低がまるでない一本調子なのだ。フェンビーは必死に聴き取ろうとした。「何調なのですか?」「イ短調」。遅れをとるまいと躍起になるあまり、彼はペンを逆さに持ってしまう。インクで手が真っ黒になり、眼には涙が溢れてきた。「ごめんなさい、もうできません! 僕を許して下さい」。フェンビーが泣き叫びながら部屋から飛び出すのと同時に、心配した夫人が駆け込んで来た。
フェンビーの耳にディーリアスの怒鳴り声が背後で聞こえた。「イェルカ、あの子は駄目だ。のろますぎる。簡単なメロディも書き取れやしない!」
その晩、フェンビーがほとんど一睡もできなかったのは言うまでもない。
翌日、打ちのめされ、すっかり意気消沈した彼の許にイェルカ夫人がやってきた。
「フェンビーさん、貴方はここで主人を助けてあげられるただ独りの音楽家です。私にはなんの音楽的知識もないので、貴方の感じ方が正しいかどうか判らないけれど、私は貴方を信じます。ご自分の若さを武器に、主人に立ち向かって行って下さい。私はいつも貴方の味方ですからね!」
フェンビーが勇気を奮い起こして、再び助手としての仕事に立ち戻ったのは、この夫人の励ましのお蔭であった。
(明日につづく)