わが国でショスタコーヴィチをライフワークとする人物といえば誰しも井上道義を想起するだろうが、その上を行く指揮者がいる。この二十五年間に「第十四」を除くすべての交響曲を実演で手がけている。それも「第七」「第八」「第十二」は三度、「第一」「第四」「第五」「第六」「第九」「第十」「第十一」「第十三」は二度というから半端でない。加えてピアノ、ヴァイオリン、チェロのための協奏曲(各二曲ある)や《森の歌》《スチェパン・ラージンの処刑》、果ては映画音楽《ニュー・バビロン》《女ひとり》《司祭とその召使バルダの物語》《ピロゴフ》《ベルリン陥落》《馬虻》などまで採り上げている。
はてさて、そんな奇特な指揮者がこの国にいたのか、と訝しがる向きもおられよう。その御仁とは長田雅人(Масато Осада)という。專ら合唱指揮やアマチュア・オーケストラの指揮に携わっているので気づかぬ人も多かろうが、彼こそはショスタコーヴィチを自家薬籠中のものとした人物、ロシアでいえばコンドラシンやロジェストヴェンスキーに匹敵する存在といっても過言ではあるまい。
長田雅人が長きにわたり常任指揮者を務める「オーケストラ・ダスビダーニャ」はショスタコーヴィチを演奏するために、その一事のみを目的に結成された、世にも稀なアマチュア・オーケストラである。
上に掲げた演奏曲目はすべて長田&ダスビダーニャの四半世紀に及ぶ営みの成果なのだ。これを天下無双と云わずしてなんと評すべきか。
強く奨めて下さる方がいて、昨日その定期演奏会に出かけてきた。
2017年3月12日(日)
14時~
東京・池袋、東京芸術劇場 コンサートホール
オーケストラ・ダスビダーニャ 第24回 定期演奏会
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ショスタコーヴィチ:
エルヴィン・ドレッセルの歌劇《哀れなコロンブス》のための序曲とフィナーレ
交響曲 第一番
―休憩―
交響曲 第十二番
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アンコール)
モソロフ:
交響的挿話《鉄工場》
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長田雅人指揮
オーケストラ・ダスビダーニャ
冒頭の《哀れなコロンブス》は恐ろしく珍しい楽曲だ。ドレッセルの同名のオペラ(1927)のレニングラード初演に際し、楽譜未着の箇所(序曲と大団円)を急遽ショスタコーヴィチが補筆したという曰く付きの楽曲だ。永らく失われていた楽譜を作曲者の歿後ロジェストヴェンスキーが発掘し蘇演、録音もされた。
年代的には《黄金時代》と《ボルト》の間に位置し、いきなりショスタコーヴィチの若やいだ覇気と毒気にあてられる。急場しのぎのやっつけ仕事の気味はあるものの、天才青年の面目躍如たる音楽。後半には第一ピアノ協奏曲や劇音楽《条件付きの死者》で馴染の主題が出てくるが、こちらがオリジナルらしい。こんな秘曲を堂々たる生演奏で聴けるのは「ダスビダーニャ」ならではの功徳である。奏者たちがやおら起立して吹き/弾きまくるクライマックスにもびっくり。
続く第一交響曲も生で聴くのはひょっとして初体験かもしれない。これまでなんとなく「才気煥発たる諧謔に溢れた若書き」と思い込んでいたが、こうして間近で(小生の席は舞台右方すぐ上)耳にすると、なんとも複雑な、分裂症気味の、一筋縄ではいかぬ交響曲である。
たしかに第一、第二楽章は剽軽で素っ頓狂ところもあるにはあるが、後半はむしろ重厚で悲劇的な翳りもあって、後年のショスタコーヴィチの指向を彷彿とさせる。そう感じさせるのは、この作曲家の音楽を咀嚼し、全体像をわがものにした指揮者と楽団が紡ぐ演奏ならではの賜物だろう。弱冠十八歳の出世作にはショスタコーヴィチのすべてがある、との感を強くした。
随所でファゴット、クラリネット、オーボエのソロが頻出し、いかにも難しそうなパッセージも難なくこなす。トランペットや打楽器群の健闘ぶりにも耳目を奪われた。これは素晴らしく生気に満ちた演奏だ。
休憩時間は二十分。外で一服し、ジンジャーエールで喉を潤し、分厚いプログラム冊子を繙いたら須臾にして過ぎた。
後半の第十二交響曲については作品の出来にとかく毀誉褒貶が付き纏う。体制に阿り諂ったあげく、徒らに革命を賛美した空疎な駄作と決めつける向きもあるが、ムラヴィンスキーの決定的な凄演でこの曲を知った小生は常々「そんなことはあるまい」と考えてきた。「第十」ほど緻密ではないにせよ、「第七」より遙かに感動的だし、交響曲としての内実は「第十一」と同等、あるいは上回るだろう。
今回の実演はそれを実証して余りある出来映えだった。前半のプログラムでは管楽器と打楽器にばかり目を奪われたが、この「第十二」では弦楽アンサンブル、とりわけ低弦の充実ぶりに惹きつけられる。第一楽章冒頭、コントラバスとチェロによる主題提示で、すぐさま「これはただならぬ演奏になるのではないか」と予感した。真率な感情の吐露、気合の入り方が半端でない。徹頭徹尾ここまで心のこもったショスタコーヴィチは、日本の職業オーケストラからは久しく聴けないものだ。端倪すべからざるダスビダーニャ!
全体は「革命のペトログラード」「ラズリフ村(=レーニンの潜伏先)」「アヴロラ丸(=巡洋艦)」「人類の薄明」と題された四部に分たれるが、楽章の切れ目なしに演奏されるため、交響曲というよりも標題付きの交響詩、むしろドラマ仕立ての描写音楽という趣が色濃い。ロシア革命を題材にした実録映画のサウンドトラックさながら、頗る映像喚起力に富んだ、手に汗を握る音楽なのだ。十月革命を描いたエイゼンシュテインの無声映画《十月》のサウンド版には、この交響曲の断片が効果的に挿入されていた。
反面それ故に「活人画めいた安手の描写音楽」との悪評が付き纏うのだが、真摯そのものの「ダスビダーニャ」の演奏を聴く限り、決してそれだけの音楽ではない。深刻な苦渋、激越な炸裂、そして底知れぬ沈潜。これはこれでショスタコーヴィチの面目躍如たる逸品だとの思いを強くした。
下手をすると内実を欠いた空騒ぎに堕しがちな終楽章も、今回の演奏を聴く限りでは、荘重にして重厚、真実味を帯びたフィナーレとして感動的に響いた。客席の各所からブラーヴォの声が飛んだのも宜なるかな(小生も叫んだ)。
拍手しながら考えた。この「第十二」を生で聴くのはこれで何度目だろうか、と。咄嗟に数えられないが、前回体験したのが六年前、同じこの「ダスビダーニャ」の定期演奏会(第18回)だったのは間違いない。記憶するかぎり、そのときの演奏より指揮者も楽団も確実に深化している。ショスタコーヴィチの内面にここまで肉薄した日本人集団はほかにいないだろう。
舞台上では団員たちが慌しく楽譜を置き換え、追加奏者が駆け込み、めいめい鉢巻やヘルメットを着用する姿が見える。ということはアンコールは・・・と考える間もなく開始されたのはアレクサンドル・モソロフの《鉄工場》。やっぱりそう来たか! こんな音楽を生で聴けるのも「ダスビダーニャ」ならではの功徳なのである。
特設売店で土産に楽団の私家版CDを手にした。前回「第十二」が奏された第18回定期(2011年2月20日)の実況録音。今回の実演との聴き較べもあるが、アニメ映画《司祭とその召使バルダの物語》の音楽が聴けるのがなにより楽しみだ。
千葉と池袋の往還の車中、夢中で読み耽ったのが池田嘉郎の新著『ロシア革命 破局の8か月』(岩波新書)だというのも、何かの因縁だろうか。