今週の月曜日、たまたま隣町のスーパーまで出かけ、眼鏡店に用事があるという家人と別行動をとり、時間潰しに立ち寄った書店の雑誌コーナーで集英社の季刊誌『kotoba』(2017年冬号)が目に留まった。表紙には「蒐集家の悦楽」と大書され、特集にふさわしく、荒俣宏、鹿島茂、みうらじゅんといった「いかにも」な面々が寄稿者に名を連ねている。
このほか、小林康夫がベンヤミンの「パッサージュ論」における蒐集行為の探求を、奥本大三郎が昆虫採集と分類学の発達を、石毛直道が「みんぱく(国立民族学博物館)」のコレクション形成史を、石黒敬章が実父から引き継いだ古写真蒐集の愉しみを、といった塩梅で、それぞれ適材適所に蒐集道の奥義を開陳している。この巻頭特集とは別枠ながら、切手蒐集をめぐる四方田犬彦の連載も、なかなか面白く読ませる。
コレクターの端くれである小生にはどの文章も興味深く、同時に身につまされる思いがした。蒐集行為とは度し難いパッションであり、死に至る不治の病なのだ。ふと時計を見遣ると、そろそろ家人との待ち合わせの時刻になる。最後にエッセイをもうひとつだけ立ち読みしようと捲ったページに、旧知の太田泰人の名を見出して思わず息を呑んだ。
太田君の文章は題して「ジョゼフ・コーネルの箱のなか」。なるほど、「箱のアーティスト」コーネルもまた、蒐集家と呼びうる人物だった。ニューヨーク郊外にある彼の自宅の狭い仕事場には、ジャンクされた無名の映画フィルム、古写真やブロマイド、書籍や雑誌の切り抜き、走り書きのメモ、貝殻やコルク玉など、ガラクタ同然の小物までが種類ごとに分類され、整理箱に収納されていた。これらはやがてコーネルの眼で精選され、熟慮ののちに絶妙なバランスで組み合わされて、小さな木箱のなかに収められる。
太田君は「コーネルの場合、それが当時は誰も集めないようなものだったこと、さらにそこからもうひとつの小さな縮小された世界を作り出していること」が面白いとしたうえで、DIC川村記念美術館蔵《無題(ラ・ベラ [パルミジャニーノ])》(→これ)を例に引きながら、「コーネルの作品には、エレジー、哀しい感じがあります。同時に、遥かなものへの憧れとか、今ここにいなくなってしまったものへの思いとか」が強く込められていると指摘する。箱のなかに一人の美少女がいるが、それは彼女の「面影」でしかなく、「箱全体は何かが終わってしまった廃墟のようでもあります」。コーネルにとって「蒐集」の基本は「今ここにないもの、過去、不在なのです」。
太田君は1992年秋、日本初の大がかりな「ジョゼフ・コーネル展」を、(今は亡き、と記さねばならない)鎌倉の神奈川県立近代美術館で実現させた。同展の巡回先の美術館にたまたま在籍し、担当者として準備段階から彼とさまざまに協働できたことは、小生にとって懐かしく、また誇らしい思い出である。