ジョージー・ガール/シーカーズ →これ夜をぶっとばせ+ルビー・チューズデイ/ローリング・ストーンズ →これ見つめあう恋/ハーマンズ・ハーミッツ →これハッピー・トゥゲザー/タートルズ →これストロベリー・フィールズ・フォーエバー+ペニー・レイン/ビートルズ →これ花のサンフランシスコ/スコット・マッケンジー →これ恋のひとこと/ナンシーとフランク・シナトラ →これあなただけを/ジェファーソン・エアプレイン →これハートに火をつけて/ドアーズ →これ愛こそはすべて/ビートルズ →これ青い影/プロコル・ハルム →これ *曲名をクリックすると音楽が流れます。
今からきっかり五十年前、1967年の上半期のヒット曲を思いつくままに書き出してみた。曲名と歌手名の組み合わせは脳の記憶野の奥底、よほど深層に刻まれているのだろう、半世紀を経た今も逡巡なくスラスラと出てくる。
順不同の列挙では芸がないので、少し調べて発売順に配列した。冒頭の《ジョージー・ガール》は英米では1966年末リリースだが、わが国で出たのは67年初頭、シングル盤の表裏ともにヒットした《ストロベリー・フィールズ・フォーエバー》と《ペニー・レイン》の発売は67年3月、《愛こそはすべて》とプロコル・ハルムの《青い影》とはほぼ同時期、同年夏に出たのだと思う。《愛こそはすべて》はその録音風景が衛星経由で全世界にTV同時中継され(67年6月25日)、それを田舎の中学三年生も呆けた顔で観たから、殊のほか記憶に残っている。
ちょうどこの時期、ビートルズは「コンセプト・アルバム」の濫觴たる劃期的なLP《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド》を世に問うていた(日本盤発売は67年7月5日)のだが、レコード店もない埼玉の田舎に暮らす中学生はその存在にも意義にも気づくことなく、もっぱらシングル・ヒットばかり、それもディスクそのものではなく、ラヂオのベストテン番組だけを頼りに、耳で新曲を追いかけていた。そもそも上に画像を掲げたシングル盤ジャケットも、実物を目にしたのは遙か後年、上京して阿佐谷に住んだ70年代半ば以降である。
この年にはこれらの曲のほかに、モンキーズの《
デイドリーム》、セルジオ・メンデスとブラジル'66の《
コンスタント・レイン》、口笛ジャックの《
口笛天国》、ピーター・ポール&マリーの《
ロック天国》、ママス&パパスの《
窓辺に恋を》と《
愛する君に・・・》なども小ヒットしたはずだが、はたして何月頃の出来事なのか調べがつかなかった。熱烈なポップス狂いだった小生は、やがてクラシカル音楽に目覚めたときに前非を悔いて(?)それまで書き留めておいた記録ノートを火に投じてしまった(!)ので、確かなことはもう記憶の彼方なのだ。
上にも述べたように中学三年だった小生は、父親に掛け合って「高校合格祝いの前倒し」という変てこな口実で、FMが受信できるトランジスタ・ラヂオを買ってもらった。永らく1967年夏の出来事と記憶していたのだが、つい先日たまたま古い手控え帖を繰っていたら、それが同年8月3日のことと判明した。
FM放送(といっても当時はNHK・FMとFM東海の二局だけだが)を愉しむようになって、わが音楽生活は俄かに活性化した。なにしろ聴ける番組の数が半端でない。この日を潮に、小生の嗜好はポップスからクラシカルへと大きく舵を切り、ほどなくラヂオ番組の洋楽ベストテンを書き留める習慣を失った。小生が記憶する67年のヒット曲がこの年の夏以前に集中しているのは恐らくそのせいだろう。
それにしても、なんという時代だろう。ビートルズとストーンズがともに「両A面」シングルで互角にわたり合い、シナトラ父娘が仲睦まじくデュエットするかと思えば、西海岸のフラワー・チルドレンが《花のサンフランシスコ》を口ずさみ、ジェファーソン・エアプレインとドアーズが時代に先駆ける問題作で鎬を削る。そこにハモンド・オルガンを荘重に響かせたプロコル・ハルムの《青い影》までが参戦する。20世紀のポップス史上、かくも豊饒で刺戟的な半年間があっただろうか。
それなのに、嗚呼!と溜息をつく。十四歳の小生はそのすべてに背を向けて、洋楽ポップスの愉悦からキッパリ足を洗ってしまうのである。全くもって愚かとしか云うほかない浅はかな行動である。それほどまでにクラシカル音楽の誘惑が大きかったのか。父親にFMが聴けるラヂオをねだったくらいだから、きっとそうに違いあるまい。そもそも当時《青い影》があんなにも深く心に沁みたのは、それがバッハの複音楽を下敷きにした擬バロック的な音楽だったからではなかったか。
人類の歴史に「もし~だったなら」の反実仮想が禁句なように、個人史にも同様の問いかけは意味をなさないだろう。そうと知りつつも、小生はどうしても自問自答してしまう。1967年夏のポップスからクラシカルへの転進がなかったら、その後のわが音楽人生は一体どのように展開しただろうか、と。
極東の島国の中三生は当時まるで知る由もなかったが、この年の夏、米国カリフォルニア州モンタレーでは空前の規模でポップ・フェスティヴァルが開催された。アニマルズが、サイモン&ガーファンクルが、バーズが、ザ・フーが、ジェファーソン・エアプレインが、ママス&パパスが顔を揃えたほか、彗星のように登場した
ジャニス・ジョプリンと
ジミ・ヘンドリクスが並み居る聴衆を圧倒していた。同じくこのフェスティヴァルで喝采を浴びた
オーティス・レディングは、同年暮れに《ドック・オブ・ベイ (Sittin' on) The Dock of the Bay》をスタジオ録音した三日後に飛行機事故で早世する。享年二十六。
ポップ・ミュージックと絶縁してしまったので当然だが、こうしたロック黎明期の有為転変をまるで知らぬまま、クラシカル音楽を糧に孤独な高校生活を送った。オーティスやジャニスやジミヘンの音楽を耳にしたのは、彼らが相次いで世を去ったあと、小生が大学を辞めて上京し、深夜のライヴスポット「荻窪ロフト」で、スピーカーから流れてきた洋楽と再会する70年代半ばまで俟たねばならない。
1967年夏から1975年まで続いたロック体験におけるわが「空白の八年間」を埋めるのは並大抵ではなかった。なにしろクリームもレッド・ゼッペリンもピンク・フロイドもリアルタイムでは全く聴いていない。クロズビー、スティルズ、ナッシュ&ヤングの離合集散も知らなかった。そのあたりの無知蒙昧ぶりを「荻窪ロフト」に絡めて綴った旧文を引いておこう。
歩いていける気安さも手伝って、この店には三日とおかず頻繁に通った。ライヴがあるのは概ね週末の夕方六時半から九時半と決まっていたから、それ以外の時間帯はいつもロックかジャズのLPがスピーカーからひっきりなしに流れていた。
1967年から八年間ほどポップ・ミュージックと疎遠にしていたので、荻窪ロフトでのひとときは小生にとって「失われた時」を取り戻すための貴重な時間だった。四十坪にも満たない穴蔵のような空間で息をひそめるようにして、ジャニス・ジョプリンの『チープ・スリルズ』と『パール』を、二ール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』と『ハーヴェスト』と『今宵この夜』を、トム・ウェイツの『クロージング・タイム』と『土曜日の夜』を、初めて聴いたあの至福の体験。三十五年経った今も忘れることができない。真夜中にここで食べた焼き饂飩の思いがけぬ美味しさとともに。 当時たまたま深夜ラヂオ番組を通じて出遭った「荻窪大学」の面々は、ロック音楽に関する小生の年齢不相応な不調法にすぐ気づいたに違いないが、それを咎めだてするような狭量な人間はひとりもいなかった。濃やかな交友を通じてさまざまな薫陶を与えてくれた仲間たちがどれだけ難有かったことか。
その後ふとした機会から知遇を得た年少の女友達は、ブルーズやR&Bに関する小生のあまりの蒙昧ぶりに半ば呆れながらも、「それならこれを聴いてごらんよ」と、
エタ・ジェイムズや
ボニー・ブラムレットのLPをカセットに録音してくれた。その親切には、これまた感謝の言葉が思いつかない。
最後に再び、忘れがたい1967年のスマッシュ・ヒットから、わが鍾愛のママス&パパスの《
愛する君に・・・ Dedicated to the One I Love》、ペトゥラ・クラークの《
天使のささやき Don't Sleep in the Subway》を。あの頃は想像もしなかった動く映像つきで。