(承前)
今年は早いもので米原万里さんの歿後十年に当たっていた。
小生は『ロシアは今日も荒れ模様』(1998)、『旅行者の朝食』(2002)など、彼女のロシアもの面白エッセイを一通り読んではいたものの、TVのコメンテーターとしての彼女の自信たっぷりな物腰と毒舌、エッセイに頻出する下ネタ、それに守秘義務があるはずの同時通訳体験から多くのネタを引き出す態度には、なんというか、ちょっと困惑気味だった。要するに苦手なタイプのひとだったと思う。
ところが彼女が少女時代のプラハ留学体験に根ざしたノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001)や、スターリン時代の市民生活に取材した初めての小説『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002)を上梓するに至って、「これは凄い書き手かもしれない」と思い始めていた。
そうした矢先、2006年に彼女の訃報に接して愕然としたのを昨日のように憶えている。紆余曲折を経てフィクション作家という天職に辿り着いた末の癌との闘病と死。享年五十六はあまりにも早すぎた。
あれは2010年春のこと、市川市芳澤ガーデンギャラリーという小さな展示施設で「米原万里展 ロシア語通訳から作家へ」が催された。その関連企画として、彼女と大学院時代に同級生だったという沼野充義さんの講演「米原万里さんの思い出」があった。会期半ばの4月18日のことだ。ささやかな会場はすでに聴衆で埋まっていたが、どうにか空席をみつけて拝聴した。
もう六年前のこととて委細はあらかた忘れてしまったが、沼野さんの話はいつにも増して心情が溢れ、彼女の最初で最後の小説『オリガ・モリソヴナの反語法』への賛辞を口にしたのち、「これだけフィクションの世界で力を発揮できるのだから、米原さんがロシア文学の翻訳に手を染めなかったのがなんとも惜しまれる。彼女が訳した『アンナ・カレーニナ』や『カラマーゾフの兄弟』を読んでみたかった」とつくづく慨嘆された。
その話の流れで、沼野さんは「
これはほとんど知られていない事実だが」と前置きしたうえで、ちょっと聞き捨てならない秘話を口にされた。「
実は米原さんがまだ二十代の1970年代後半、彼女はヴィシネフスカヤが歌ったショスタコーヴィチ歌曲集のレコードの歌詞対訳で、サーシャ・チョールヌィの詩をいくつか翻訳している。これは私が引き受けたアルバイト仕事の一部分を同級生の彼女に委ねたもので、おそらく彼女の初翻訳だったはずだし、その訳詩の出来映えがとても素晴らしかったのを今でもよく憶えている」という内容だった。
はてさて、そんなレコードがあったけかな、と小生は訝しく思った。1970年代の後半、小生はクラシカル音楽から遠く離れたところに身を置いていたから、咄嗟にそのとき具体的なLPが思い浮かばなかったのだ。
爾来六年間、折に触れてそのショスタコーヴィチ歌曲集のレコードを探し続けてきた。それが今年になって偶然の機会から中古盤で手に入ったのである。しかも、相前後してチャイコフスキー、ムソルグスキーの歌曲集も別々に見つかった。ひとつ前の投稿記事で紹介した三枚のLPがそれである。
手に入れた三枚のLPには幸いにも歌詞カードが具備していた。それらを確認してみると、三枚ともすべて歌詞の日本語訳は沼野充義が担当し、「ショスタコーヴィチ歌曲集」の《風刺(昔の風景)》のサーシャ・チョールヌィ詩五篇のみ、米原万里が訳したことが明記されている。沼野さんの記憶どおりだった。
LPにはなぜか本体にもジャケットにも発売年月が記されていないので、手元にある『1978 演奏家別 クラシック・レコード総カタログ』(芸術現代社)を調べると、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、ムソルグスキーの順に、それぞれ1976年11月、1977年3月、同4月の発売であることがわかった(この手のカタログの常で、一か月ほどの誤差はあり得る)。
さて、ここからあとの記述は「多分こういう成り行きだったのではないか」という小生の推測である。だから真偽のほどは保証できないのだが。
察するに、東芝EMIがこのヴィシネフスカヤ&ロストロポーヴィチによる「ロシア歌曲集」三枚組の発売を決めたのは、英国のEMI本社から連絡を受けた1976年の前半、遅くとも同年の夏頃だったのではないか。当初の予定では、英・仏・独の例に倣って、三枚を一箱に納めた豪華なボックス・セットを考えたはずだ。ソ連を代表する鴛鴦カップルによるロシア歌曲の一大アンソロジー、しかも彼らの出国後の再出発を飾る注目の企画でもある。これは相応の話題を呼ぶに違いない。
発売は秋が相応しかろう。毎年この季節には文化庁が主催する「芸術祭」が催されており、各レコード会社はなかなか商業ベースに乗らない、だが芸術的には価値が高い企画物のレコード(地味な民俗音楽や先鋭な現代音楽、あるいは稀少なオペラや古楽アンソロジーなど)を芸術祭「レコード部門」の候補作に仕立て、それぞれ覇を競っていたのである。東芝EMIは特にこの祭典に熱心であり、同社の豊富な音源を背景に、美麗な函と詳細な解説書を伴った豪華なボックス・セットを候補作としていくつか出品するのが慣わしだった。
小生が上のように推察するのには理由がある。結局は三枚バラバラに出た「ロシア歌曲集」の第一弾、「ヴィシネフスカヤ/チャイコフスキー歌曲集」のジャケット表面の右下隅には小さな金紙シールが貼付されており、そこには「昭和51年度 文化庁 芸術祭 参加」の文字が印字されているからだ。かてて加えて、一枚物LPとしては異例なことに、ジャケット裏面には曲目リストしか記されず、収録作品の解説や演奏者紹介の文章(執筆=園部四郎)は、沼野さんが手がけた歌詞対訳とともに、ちょっと高級な紙に刷られた二つ折りの別紙として封入されている(その解説書にも同じ金紙シールが貼られている)。
こうした目先の工夫でどうにか差別化を図ったものの、やはり一枚物の単発企画はインパクトに欠けていただろうから、案の定というべきか、本作は「芸術祭」受賞を逃している。代わってこの年「優秀賞」を授かったのは同じ東芝EMIから出たベッリーニのオペラ《モンテッキとカプレーティ》の三枚組。他社の受賞作もエネスクの歌劇《オイディプス王》やオネゲルの《火刑台のジャンヌ・ダルク》など、いかにも芸術祭に相応しい大作ばかりだった。
小生の推理はこうだ。当初はロシア歌曲の一大アンソロジーとして三枚組の豪華セットを構想していたところ、急遽なんらかの理由から取りやめになり、代わりにひっそり「チャイコフスキー歌曲集」だけが埋め合わせとして出た。金紙のシールはその名残なのではないか。
さてここから先は推測のまた推測、屋上屋を重ねて妄想に近い想像なのであるが、そもそも本家の英EMIでも1976年9月に出たばかりのボックス・セットを、芸術祭参加の名目で同年11月に出すという企てには初めから無理があったのは明らかだ。音源テープの遅延や事故など不測の事態もあり得るが、最も危惧されるのは日本側が制作するジャケット解説や歌詞対訳の綱渡り的な進行である。
これまでに参考書もあり、先行するレコードも各種あるチャイコフスキーやムソルグスキー(東芝にはボリス・クリストフの「ムソルグスキー歌曲大全集」があった)はともかく、ショスタコーヴィチの二つの近作歌曲集はこれが世界初録音ということもあり、情報が極度に尠かったと考えられよう。解説に当たったのはチャイコフスキーとショスタコーヴィチが園部四郎、ムソルグスキーが井上和男──それぞれ当時はロシア音楽の解説者として定評あったソ連寄りの面々──であるが、園部によるショスタコーヴィチ歌曲集の解説は格段に劣っており、無内容の誹りを免れない。それだけ手元に材料が乏しかったのであろう。
歌詞対訳とて同じこと、ショスタコーヴィチの場合は先行訳もなく、ブロークとチョールヌィの詩句の難しさは19世紀ロマン派詩人たちのロマンスの比ではなかったろう。そもそもテクストの入手に手間取ったかもしれない。
日本盤の制作進行上の障害はショスタコーヴィチ歌曲集だったと考えられるのだ。
これらのレコードが世に出た1976年秋から翌77年春という時期に鑑みるに、歌詞対訳の仕事が弱冠二十二歳の沼野充義に委ねられた事実にも改めて驚かされる。小生よりも二歳年下の彼は、この時期まだ東京大学教養学部教養学科ロシア分科に四年生として在学中(ウィキペディアの経歴に拠る)だったはずで、功成り名遂げて大御所となられた現今ならともかく、四十年も昔、まだ駆け出しの青二才への翻訳依頼は、些か冒険的な大抜擢だったのではないか。
東芝EMIは同じ頃、ディーリアスの声楽曲《海流》LPの歌詞対訳に、中学生だった(!)南條竹則さんの翻訳を用いた例もあるが、あれはライナーノーツを執筆した三浦淳史さんの斡旋があればこその抜擢。ヴィシネフスカヤの歌曲集の対訳仕事に、一介の学部学生を起用するのはやはり異例な人選というべきだろう。
おそらくは誰か斯界の大先輩(例えば恩師の川端香男里とか)の強力な推輓があったか、あるいは誰か別の訳者の窮地を救うピンチヒッターだったか、そこに何か特別な裏事情が潜んでいたと想像したくなる。この歌詞対訳は沼野さんにとっても初仕事のひとつだったろうから、きちんとご本人に経緯を確かめておいたほうがよさそうだ。因みに、単行本としての彼の最初の翻訳は、1978年に出たアレクサンドル・グリーンの空想的な小説『輝く世界』(月刊ペン社「妖精文庫」)だった由。
実は沼野さんは上に紹介した講演とは別に、「思い出すこと──最初の訳詩から最後の電話まで」と題して米原万里さんを偲ぶ回想を綴っており(『ユリイカ』2009年1月号)、そこから当該箇所を引こう。東京大学の人文科学研究科修士課程でロシア文学を専攻していた大学院時代の二年間、彼女とは同級であり、「あのころは二人ともささやかながら仕事をおずおずと始めていて」、彼女が編集を手伝っていた語学雑誌の1977年5月号に《惑星ソラリス》の映画批評を書き、それが自分の「文筆デビュー」だった、と前置きしたのち、彼は次のように回想する。
一方、私のほうからは、彼女に頼んで訳詩をしてもらったことがある。当時私は東芝EMIのロシア歌曲のLPレコードに添付するための歌詞対訳の仕事をやっていたのだが、そのうちの一枚『ヴィシネフスカヤ/ロシア歌曲集』(EAC-80326)の仕事を半分、彼女に回して共訳したのだった。レコード・キャビネットから久しぶりにそのLPを引っ張り出してみたが、いつ発売されたかについての手がかりがどこにも印刷されておらず、正確なことがわからないのだが、やはり一九七七年のことではなかったかと思う。米原さんが担当したのは、「諷刺(昔の風景)」作品一〇九というもので、諷刺詩人サーシャ・チョールヌィの作品五篇の米原万里による翻訳が、ロシア語原文とともに歌詞カードに印刷されている。このレコードで私が担当したのは、もっと抒情的な象徴詩人アレクサンドル・ブロークの詩七篇で、二人の分業はそれぞれの個性にあっていたように思う。米原さんはその後、通訳としては長年活躍したが、文学作品の翻訳に携わることは結局なかったので、いかなる著作目録にもまだ登録されていないこの訳詩は、知られざる彼女の才能の一端を示す貴重なものではないかと思う。[後略]
沼野さんはこのあと「いま改めて読み返してみると訳文自体が面白い」「いずれ全文をどこかに再録すべきではないか」と称賛したあと、米原さんが訳した五つのチョールヌィ詩から冒頭の一篇「批評家に寄せて」の全体(といってもわずか七行の掌篇だが)を書き写している。
この文章で沼野さんは自分の大学院時代のこととして回想するが、前述したように正しくはこれは彼がまだ学部在籍中の1976年から翌77年初頭にかけての出来事だった。『ユリイカ』2009年1月号所収「米原万里略年譜」によれば、この時点で米原さんは東京大学大学院人文科学研究科露語露文学専修修士課程(ふう!)の一年目とある。となると沼野さんは当時まだ駒場の四年生、年長の米原さんは本郷の大学院生だったわけで、「彼女と同級だった」大学院時代の共訳という話の前提が崩れてしまう(沼野さんの大学院進学は翌77年の春)のだが、おそらく前途を嘱望された沼野さんはすでに本郷の露文研究室にも出没していて、そこで米原さんに出遭っていたのだろう。そう考えると辻褄があい合点がいく。
それにしても、沼野さんはそのときなぜ、よりによってチョールヌィの詩篇だけをわざわざ米原さんの手に委ねたのだろうか。この詩人が彼女向きだと考えたのか、自分の手には余ると思ったのか。
同じ『ユリイカ』特集号によれば、米原さんは東京外国語大での卒論も、東大の大学院での修論も、テーマは一貫して19世紀ロシアの抒情的な民衆詩人ネクラーソフだった。となると、痛烈な皮肉とグロテスクな哄笑がさざめくチョールヌィ作品ではなく、むしろチャイコフスキーやムソルグスキーが好んで付曲した19世紀の高雅で情味豊かな抒情詩人のほうが彼女の本領だったのではないか。事実、ヴィシネフスカヤの「ムソルグスキー歌曲集」にはほかでもない、そのネクラーソフの詩に作曲した「エリョームシュカの子守歌」が含まれているのだ!
もっとも勧進元の沼野さんだって、当時執筆中の卒論のテーマがドストエフスキーの『未成年』だった(サリンジャーの『ライ麦畑』と比較したそうな)というから、19世紀ロシア文学こそ自分のフィールドなので誰にも譲れない、自分が訳すのだという意地があったかもしれない。
経緯はどうあれ、肝腎なのは結果だけだ。チョールヌィ詩の邦訳を米原さんの手に託した沼野さんの直観はものの見事に的中した。まるで日本語のオリジナル詩のような自在さなのだ。沼野さんの鑑識眼=「人を見る目」の確かさは四十年前すでに効力を発揮していたのである。後生畏るべし!
えっ? 米原さんの訳文は掲げないのか、って?
掲出するか否か、さんざん迷った挙句、著作権の縛りがあるので全文は無理としても、せめてごく一部分だけでも、彼女のチョールヌィ翻訳の面白さの例として示すことにした。《風刺(昔の風景)》の第四曲「思い違い」の冒頭のひとくさりを。まずロシア語の原詩、次いで米原訳の順で。
Недоразумение.
Она была поэтесса,
Поэтесса бальзаковских лет.
А он был просто повеса,
Курчавый и пылкий брюнет.
Повеса пришел к поэтессе.
В полумраке дышали духи,
На софе, как в торжественной мессе,
Поэтесса гнусила стихи:
«О, сумей огнедышащей лаской
Всколыхнуть мою сонную страсть.
К пене бедер, за алой подвязкой
Ты не бойся устами припасть!
Я свежа, как дыханье левкоя...
О, сплетем же истомности тел!...»
Продолжение было такое,
Что курчавый брюнет покраснел.
Покраснел, но оправился быстро
И подумал: была не была!
Здесь не думские речи министра,
Не слова здесь нужны, а дела.
......
思い違い。
その女は女流詩人、
バルザックの小説風の30歳の女流詩人。
さて男の方はただの遊び人、
巻毛で、血の気の多いブリュネット。
この遊び人、女流詩人を訪ねたところ、
うす暗闇の中、香気漂い、
ソファの上で、厳(おご)そかなミサのごとく、
女流詩人は鼻声で詩句を唱えていた。
「おお、火を吐くような愛撫で
わたしの眠っている欲情をよびさましておくれ。
ためらわないで、紅色の靴下留めをかきわけて
太股の泡に口吻けしておくれ
私はニオイアラセイトウの息遣いのように新鮮・・・
おお、肉体の疲れを編み合わせたよう!・・・」
さて、この続きは、
巻毛のブリュネットも顔赤らめたほどだ
顔赤らめたものの、すぐ取り直し、
こう考えた、一か八かやってみろ、
こりゃ国会の大臣演説たあ訳が違う、
必要なのは言葉じゃなくて、実行だ。
―後略—