昨晩ふとTVを点けるとNHK・BSプレミアムの「名盤ドキュメント」枠で矢野顕子のデビュー・アルバム《JAPANESE GIRL》を特集していた。発表から四十年目、たまたまマルチトラック(16チャンネル)のマスターテープが倉庫から発見されて・・・という段取りは、先年やはりNHK・BSで放映された「MASTER TAPE~ひこうき雲」と瓜二つ、柳の下の二匹目の泥鰌さながらの展開だ。
スタジオには矢野ご当人のほか、進行役の清水ミチコ、当時をよく知る細野晴臣がおり、ほかに当アルバムのB面アレンジを手がけた矢野誠、プロデューサーを務めた三浦光紀、「ロブロイ」店主で若き日の矢野の後見役だった安部譲二、A面の演奏に参加したリトル・フィートのギタリスト、ポール・バレア(Paul Barrere)などの証言も要所要所に織り込まれて、それなりに興味津々の仕上がり。別室で対談する坂本美雨、原田郁子のとりとめない雑談セクションは不要だったかも。
このアルバムが世に出た前後のことは鮮明に記憶している。天才少女の評判はほうぼうから聞こえてきた。途轍もなくピアノの巧い女の子がいるのだと。
彼女はすでにユーミンの《ミスリム》(1974)ではコーラスで参加していたし、小坂忠の《HORO》(1975)に一曲だけだが詞曲を提供していた(この時点では鈴木晶子名義)。《MINAKO Ⅱ》という吉田美奈子のライヴ・アルバム(1975)でピアノを担当しており、1975年11月にライヴハウスでの大瀧詠一ライヴではピアノを弾く姿を至近距離から実見すらした(
→荻窪ロフトで「楽しい夜更し」)。76年の5月頃だったと思うが、渋谷公会堂で雑誌『GORO』の無料招待コンサート「GO ROcking festival」に出演して何曲か歌ったのも観たはずだ。いずれも76年7月のアルバム・デビュー以前のことだ。
だから《JAPANESE GIRL》が鳴り物入りで発売され、その直後に渋谷公会堂でデビュー・コンサートが催されるあたりの経緯はリアルタイムで知っている。アルバムの発売予告チラシは今も手元にあるし、荻窪ロフトの扉口に掲出されたコンサートのポスターのカラフルな図柄もよく憶えている。
にもかかわらず、ひねくれ者の小生はこのアルバムを手放しで礼賛できず、むしろ名状しがたい違和感とそこはかとない警戒心を募らせた。
デビュー作でいきなりロサンゼルスのリトル・フィートと共演とは驚くべき快挙だし、たしかに彼らとのセッションを収めたA面("American Side")の「気球にのって」「電話線」は天駆けるような歌唱と演奏に舌を巻いたものだが、残りの曲、例えば津軽民謡による「津軽ツアー」や「ふなまち唄」にはどうにも感心できなかった。細野の《トロピカル・ダンディ》に端を発する日本回帰エキゾチカ路線の一変種みたいだし、ジャパニーズ・ガール=《日本少女》というアルバム・コンセプトからして、直前に出たあがた森魚のアルバム《日本少年》の焼き直しとしか思えない。B面("日本面")全体を覆いつくす矢野誠の「こぶしを利かせた」和風アレンジはうさん臭さの極みだと感じた。なんでわざわざ殊更にニッポンや津軽を前面に押し出さなきゃならないんだ、と訝しく思ったのだ。
我が仲間うちでも、ユーミン、石川セリ、大貫妙子、吉田美奈子、中山ラビ、金子マリとそれぞれ好みに応じて歌姫を聴き進めるなかで、矢野顕子への賛辞を耳にする機会は尠かったように思う。それどころか「あの声は勘弁してほしい」「どうにも好きになれない」と嫌悪をあらわにする者すらいた。小生もまた例外ではなく、好悪相半ばするというか、なんとなく敬して遠ざけたい気持ちが強かったように記憶する。まあ、それだけ個性が強いアーティストだったともいえる。
それでも、たまたまFM東京で耳にした荻窪ロフトのライヴ(76年8月?)で彼女がユーミンの「曇り空」を独り言めいた歌唱で口ずさみ、ライヴ・アルバム《長月 神無月》で北原白秋=中山晋平の「アメフリ」と細野晴臣の「相合傘」がメドレーで(!)唄われる(76年10月、郵便貯金ホール実況)のを耳にすると、その天衣無縫ぶりに「これは天才的だなあ」と直覚したものだ。
決定的だったのは、翌77年の4月1日に有楽町の読売ホールで山下洋輔とその一党が催した「第1回 冷し中華祭り」である。この奇天烈な夕べにどうして足を運んだのか、もう今となっては定かでないが、とにかくイヴェントに筒井康隆や平岡正明や奥成達やタモリや坂田明と並んで、なぜか矢野顕子も出演していた。会もいよいよ終盤に差しかかったところで、彼女は一曲だけピアノの弾き語りを披露した。その歌のあまりの素晴らしさに、電撃で打たれるようなショックを受けた。
唄われたのは谷川俊太郎=中田喜直の童謡「
誰も知らない」。1961年4月、NHK・TV「みんなのうた」の記念すべき放映第一回目に流れた新作である。
「お星さまひとつ プッチンともいで/こんがりやいて いそいでたべて/おなかこわした オコソットノ ホ/
誰もしらない ここだけのはなし」──今にして思えばすいぶんシュールで奇妙な詞である。画面では楠トシエの歌に合わせて動く和田誠のシンプルな線画アニメーションが不思議さを醸していた(
→これ)。小学三年の小生には忘れがたい衝撃だった。これが超現実との最初の出逢いだったかも。
「冷し中華祭り」という面妖な場で、矢野顕子がなぜこの童謡を唄う気になったのかは判らないが、小生よりも三つ年下の彼女は「みんなのうた」放映時には六歳だったはずだから、これをリアルタイムで愛唱していたのは想像に難くない。この晩の飛びぬけて自在な「誰も知らない」が、並み居る海千山千たちを瞠目させ、息を呑ませ、たじろがせたのは確実だ。愉しげでノンシャランだが、節回しにドライヴが利いていて、歌詞の発語はたいそう明瞭、この童謡に潜む破天荒なインパクトを最大限に引き出した。「誰もしらない ここだけのはなし」の部分の上昇旋律を、リフレインではわざと下降旋律に変えて歌う即興的なアレンジの妙も光っていた。
そのとき客席で打ちのめされながら、小生はつくづく思い知った。
このひとは単なるシンガー・ソングライターなんかぢゃない。自分で歌を拵えるばかりか、はやりうたであれ、わらべうたであれ、彼女が唄うと、古今東西の歌がすべて「自作」になってしまう。触れる物すべてを黄金に変えるミダス王さながらに。こんな凄い存在はまたといない・・・。