えらく風の強い日。木枯らしとはよく云ったもので、辛うじて枝に残る街路樹の葉はこれであらかた散ってしまうだろう。
まだ体調が万全ではなく、風邪がまたぞろぶり返す懼れもあるので、常になく厚着を心がけ、過剰なほどの冬支度で外出。いくつかの所用を兼ねて上京した。
まずは久しぶりに御茶ノ水へ。ディスク・ユニオンに立ち寄るのも二、三か月ぶりかもしれない。中古CDの棚を一時間ほどかけじっくり物色したのに、これという掘出物に乏しいのはどうしたことか。
グルック: 歌劇《予期せぬ出逢い、またはメッカ巡礼》
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
リヨン歌劇場Erato-Musifrance WE 815 ZA (2CDs, 1991)
→アルバム・カヴァーデュカ: 歌劇《アリアーヌと青髭》
リオン・ボッツタイン指揮
BBC交響楽団 ほかTelarc CD-80680 (2CDs, 2007)
→アルバム・カヴァープッチーニ: グロリア・ミサ
プーランク: グロリア
ミシェル・コルボ指揮
グルベンキアン財団管弦楽団・合唱団 ほかFnac 592273 (1993)
→アルバム・カヴァー目ぼしいのはこんなところ。稀覯盤といえそうなのは、プッチーニとプーランクを組み合わせたコルボ指揮の一枚。在パリのレコード店「フナック」が音源制作の分野でも気を吐いていた佳き時代の遺産である。
レジで会計を済ますと、五千円以上お買い上げの方にと来年度の卓上カレンダーを頂戴する。美麗なポートレート写真をあしらった往時のLPジャケット特集とかで、《人間の声》のドニーズ・デュヴァル(一月)、《火刑台のジャンヌ・ダルク》のヴェラ・ゾリーナ(五月)など、鍾愛のアルバム・カヴァーがいろいろ。
そのあと御茶ノ水から本郷までの移動は徒歩で。病み上がりに無理は禁物だが、風こそ強いものの暖かい陽射しに励まされた。途中さすがに空腹を覚え、本郷三丁目駅近くの「とり多津」で遅めの昼食。鶏唐揚げの定食屋だそうで、ご飯、味噌汁、キャベツがすべて食べ放題という。キャベツを二回、ライスと味噌汁を各一回お代わりしたらもう満腹。昔なら倍は喰えたろう。寄る年波には勝てない。
このあと珈琲店でブレンドをテイクアウトし、久々に古書肆「アルカディア書房」へ。秋に出た同店の目録から取り置いてもらった書目を引き取りに赴く。その本とは福原信三の地味なエッセイ集で、昭和初年に半ば私家版のようにして出たもの。ここに(小生にとっては)看過できない一節が記されているのだ。ほかに本郷座に二代目猿之助の劇団「春秋座」が出演したときの筋書小冊子も入手。
店主から「ところでこれはご存じですか?」と西野嘉章氏の新著を見せられる。内外のアヴァンギャルド稀覯書目を集大成した研究書で分厚い上下二冊本。なんと四万円もするという。思わず溜息の出る大著だが、たまたま開いた頁に目を疑うような誤植を発見。上手の手から漏れ出た水滴か。
小生からは先般ライナーノーツを寄稿したCD「大田黒元雄のピアノ」を進呈。当書肆で手に入れた大田黒の雑誌『音楽と文学』全巻揃が手許にあったからこそ、この文章が書けたのだと謝意をひとくさり。西野氏の浩瀚な書物とは月と鼈、巨象と蚤、比較にもならぬが、これはこれでわがライフワークの産物なのだ。
三時半を少し回ったところで店を辞去し、ここからは指呼の距離にある赤門正面のカフェ・ラウンジ「ボンアート」へ。
ここで四時からレクチャーコンサート「失われた帝政ロシアのバレエと音楽」がある。斎藤慶子、高橋健一郎、平野恵美子お三方による小講演にピアノ演奏を組み合わせた企画。ピアノは上記の高橋氏と長江美和さん。論じられ奏されるのは、ゲオルギー・コニュスの「ジャポニスム」バレエ《ダイタ Дайта》とアルセニー・コレシチェンコの「白雪姫」バレエ《魔法の鏡 Волшебное зеркало》、それにムソルグスキー《展覧会の絵》(それぞれ抜粋)という興味深い内容だ。
手狭で細長い喫茶店内はすでに汗牛充棟、空席を探して奥まで進むと、旧知の大島幹雄氏がいたので隣に坐らせてもらう。飲み物とケーキを註文。
この日お話しされるお三方のレクチャーは以前にも接している。斎藤さんは同じテーマで上記の大島氏が主宰する「桑野塾」で講演されたし(
→当日の記事)、高橋さん、平野さんの発表も東大での研究会で聴いた(
→当日の記事)。
その意味で今回の催しは新味を欠き、また各人の持ち時間の制約から物足りなさが否めないのだが、例証となる音楽がすぐさまピアノ演奏される利点は何物にも勝る。バレエ《ダイタ》で「さくらさくら」や「チョンキナ」や「宮さん宮さん」の旋律が明瞭に聞き取れるし、《魔法の鏡》の音楽がアレンスキーやグラズノーフばりに甘美でロマンティックなのも了解できた。論より証拠とはこのことだ。
催しは予定どおり六時少し前に恙無く終了。それもそのはず、貸切だったカフェは六時から平常営業に戻るからだ。慌ただしく散会し、小生もそそくさと辞去。地下鉄の駅まで大島氏と雑談しつつ歩く。彼はつい先日サンクト・ペテルブルグから戻ったばかり、おまけに風邪を貰ってきた由。同地では大がかりな芸術祭を開催中、開会式にはプーチンが来訪し、ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団がエイゼンシュテインの《イワン雷帝》上映に合わせて生演奏を披露したそうな。