すっかり秋めいてきた。ひと夏じゅう色とりどりの花で愉しませてくれたヴェランダの朝顔もすっかり葉を散らして、今日ひっそり咲いた白花がおそらく最後の一輪となるだろう。そこでこの歌。九年前の拙訳(拙い邦訳詞)も掲げる。
'Tis the last rose of summer,
Left blooming alone;
All her lovely companions
Are faded and gone;
No flow'r of her kindred,
No rosebud is nigh
To reflect back her blushes,
Or give sigh for sigh.
これは夏の名残の薔薇
一輪だけが咲き残る
艶やかな仲間たちはみな
色褪せて散り果てた
もはや身内の花はなく、
蕾とてその姿なし
花影を映し出し、
溜息を交わすことも叶わず
愛蘭詩人
トマス・ムア Thomas Moore (1779~1852)の人口に膾炙した名詩「夏の名残の薔薇 The Last Rose of Summer」(1805)冒頭の一連である。夏の最後に咲く薔薇の花、というイメージは日本人が抱く季節感とはちょっと背馳している。そこで明治時代の先人はこれをこう意訳した。
庭(には)の千草も。むしのねも。
かれてさびしく。なりにけり。
あゝしらぎく。嗚呼(あゝ)白菊(しらぎく)。
ひとりおくれて。さきにけり。
露(つゆ)にたわむや。菊(きく)の花。
しもにおごるや。きくの花。
あゝあはれあはれ。あゝ白菊。
ひとのみさおも。かくてこそ。
里見義(ただし)(1824~1886)作詞になる「庭の千草」である。初出は文部省音樂取調掛編纂
『小學唱歌集 第三編』(1884)。薔薇を白菊に置き換え、季節を晩夏から晩秋へと移行させたことで、日本人の季節感と「もののあはれ」の心情に訴える内容とした。蓋し見事な翻案といえよう。
独逸詩人ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse(1877~1962)にとって、過ぎ去りし夏の死を悼むための植物は薔薇ではなくアカシアだった。広く愛される「九月 September」(1927)という詩。
Der Garten trauert,
kühl sinkt in die Blumen der Regen.
Der Sommer schauert
still seinem Ende entgegen.
Golden tropft Blatt um Blatt
nieder vom hohen Akazienbaum.
Sommer lächelt erstaunt und matt
in den sterbenden Gartentraum.
Lange noch bei den Rosen
bleibt er stehen, sehnt sich nach Ruh.
Langsam tut er die großen
müdgewordnen Augen zu.
五年ほど前に拙訳を試みたことがある。恥を忍んで再録しようか。
庭は喪に服している。
雨は冷たく花々に降り注ぐ。
夏は身震いし、ひっそりと
終末へと向かう。
色づいた葉がひらり、はらり、
アカシアの喬木から舞い落ちる。
夏は微笑み、驚き、想いを馳せる、
この庭の滅びゆく夢へと。
なおも夏は薔薇の傍に佇み、
休息をこいねがう。
そしてゆっくりとそのつぶらな、
倦み疲れた眼を閉じる。
言わずもがなだろうがこの詩はリヒャルト・シュトラウス畢生の歌曲集「四つの最後の歌 Vier letzte Lieder」の第二曲目として広く人口に膾炙した。このヘッセの「九月」に詠われたアカシア樹から「あの歌」まではほんの一歩である。
アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光りのその中で
冷たくなった私を見つけて
あのひとは
涙を流して くれるでしょうか西田佐知子が唄って一世を風靡した「アカシアの雨がやむとき」(1960)。作詞は
水木かおる(1926~1998)。その第一番を書き写した。
アカシアに降る雨、滅びと死、たちこめる喪の気分。ヘッセの詩に相通ずる内容の一致は果たして偶然なのだろうか。伝え聞くところによれば、水木かおる氏は芹沢光治良の小説『巴里に死す』(1943)を下敷きに(!)この歌詞を書いたのだという(西田佐知子の証言)。
してみると、ヘッセ詩が源泉ではなく、広く欧州文化が共有してきた「アカシア~雨~死」の詩的連想がひょっこり顔を覗かせたということか。そもそも当時の日本人にはアカシア(正確にはニセアカシアだそうな)は外来のバタ臭い樹木であり、植栽としての実体に乏しく、少なくも田舎の小学生だった小生にはまるで想像もつかない植物だった。そこがこの歌の妙味だったともいえよう。
ちょっと調べてみて驚いたのだが、この水木かおるという御仁、作詞家としての業績が目覚ましい。なにしろ、この「アカシアの雨がやむとき」を皮切りに、西田の「エリカの花散るとき」「サルビアの花は知っている」「東京ブルース」「博多ブルース」を手がけたほか、「霧笛が俺を呼んでいる」と「くちなしの花」、更には牧村三枝子の「みちづれ」、川中美幸の「二輪草」も彼の作詞なのだという。凄い人だ。