ふう。相変わらずの原稿執筆である。締切日は明日。少しは先延ばししてもらえそうな感触だが、それも一週間が限度だろう。そこに問題が立ちはだかる。依頼された上限文字数が二万字なのに、現時点ですでに一万二千字。それなのに、肝心の中心主題に到達しない。この調子で最後まで書くと三万五千字か、四万字になってしまいそうな勢いだ。いくらなんでもそれでは許されないだろう。刈り込んで短くすべきなのだが、小さなエピソードの積み重ねで書き進めているものだから、カットしてしまうと筋道が通らなくなる。ひょっとして「前篇」「後篇」仕立てにならないものかと思案するが、勝手にそう決めることもできずに独り思い悩んでいる。
論考の主題は日本人のバレエ・リュス体験である。なんだ、いつものお前の持ちネタぢゃないかと嗤うことなかれ。百年前の資料を掻き集め、能うる限り丹念に読み込んで、実相に迫ろうとする。言うは単簡だが行うは至難の業である。遺された素材は断片的だから、土器の欠片から全体の器形を復元するような、あるいはむしろ、微々たる骨片から恐竜の全身像を組み上げる営みに近いのかもしれない。根気強い資料の博捜とともに、相応の想像力が必要な作業なのだ。荷が重い。
ともあれ愚痴はこのくらいにして、その百年目の体験にも係わりのある不世出のバレリーナ、
アンナ・パーヴロワに因んだディスクをかけながら今夜はゆっくり休養したい。すでに心身とも疲労困憊なのだ。
《パヴロヴァを讃えて Homage to Pavlova》
ショパン: バレエ《枯葉》
■ 夜想曲 第五番 嬰ヘ長調 作品15-2 (ヒンリックス編)
■ 練習曲 第十二番 ハ短調 作品10-12 (バウデン編)
■ 夜想曲 第八番 変ニ長調 作品27-2 (ヴィルヘルミ編)
■ 幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66 (シュミット編)
リンケ: ガヴォット「土蛍」
チャイコフスキー: ロシア舞曲 作品40-10 (シュミット編)
サン=サーンス: バレエ《瀕死の白鳥》 ~動物の謝肉祭「白鳥」
グラズノーフ: 秋のバッカナール ~《四季》
チャイコフスキー: パ・ダクシオン(アダジオ) ~《眠れる森の美女》
エフレム・クルツ指揮
フィルハーモニア管弦楽団1955年6月、ロンドン
山野楽器 東芝EMI YMCD-1044 (1997)
→アルバム・カヴァー冒頭の《枯葉》は(当CDのライナーノーツによれば)「パヴロヴァ唯一の創作バレエ」とのことだ。まさかそんな莫迦はあるまいと思うが、ともかく滅多に聴けない演目に違いない。音楽そのものは誰もが知るショパンのピアノ曲の管弦楽編曲を四つ並べたもので、いわばバレエ・リュスの《レ・シルフィード》の二番煎じ。残念ながらオーケストレーションがどれも才気と霊感に乏しく陳腐そのものだ。パーヴロワの舞踊なしで、耳に聴くだけの体験は退屈でしかない。
続くリンケの小品は別名「パーヴロワのガヴォット」。彼女はこよなく愛したというが、これまた内実を欠いた空疎な曲だ。全くもってパーヴロワの音楽的センスは旧態依然として、19世紀サロン音楽のレヴェルを一歩も出ない。ディアギレフのバレエ・リュスが音楽面でも時代を先導したのとは雲泥の差だ。
ディアギレフの歿後二十五周年を記念して制作された超豪華アルバムLP三枚組(
→これ 指揮はディアギレフの秘蔵っ子だったイーゴリ・マルケヴィッチ)の顰みに倣って、いわば二匹目の泥鰌として、本アルバムは二年後の1956年、パーヴロワ生誕七十五年/歿後二十五年を一期として世に出た。ただし音楽的な充実度という点で、両者は月と鼈さながら、まるで比較にならない。
エフレム・クルツはイザドラ・ダンカンの巡業公演を指揮してキャリアを開始し、1928年からはアンナ・パーヴロワのバレエ団の指揮者として彼女の歿年まで行動を共にした(29年4月11日、シドニー駅に到着したパーヴロワ一行を捉えた写真で、クルツと思しき長身の人物が彼女の右隣に写っている。
→これ)。
つまり本アルバムにクルツはまさに打ってつけの人選だったのだが、その彼のタクトをもってしても、かかる貧弱なプログラム選曲では腕の振いようがなかっただろう。音楽的に最も充実したグラズノーフの「バッカナール」ですら、恣意的なカット(パーヴロワはこの短縮版で踊ったのだろう)に落胆させられる。鑑賞に堪えるのは、元の日本盤LPを踏襲したこの秀麗なアルバム・カヴァーだけだ。
そういえば本LPアルバムは英盤、仏盤、米盤、日本盤とですべてデザインが異なり、それぞれに味わいが深かったのを思い出す。英盤だけでもお目にかけようか(
→これ)。小生が最初に秋葉原の中古屋で掘り出したのもそちらだった。