昨日にひき続き、往年のフランス指揮者を聴く。それも極めつきの一枚だ。
"Charles Munch in Moscow"
オネゲル:
交響曲 第二番
ラモー(ダンディ編):
歌劇《ダルダニュス》組曲
■ 入場~眠り(柔和なロンドー)~リゴードン1、2~ロンドー形式の陽気なエール
ドビュッシー:
《海》
ルーセル:
バレエ《バッカスとアリアドネ》第二組曲
シャルル・ミュンシュ指揮
ソヴィエト国立交響楽団1965年5月、モスクワ音楽院大ホール(実況)
Мелодия MEL CD 10 02279 (2014)
→アルバム・カヴァーこれは本当に凄いアルバムだ。1965年にシャルル・ミュンシュが単身で訪ソし、モスクワのオーケストラを指揮した際の貴重な実況録音がつい最近になって初めて日の目を見た。その演奏がまことに素晴らしい。ミュンシュの晩年の至芸をぐっと凝縮して開陳したような一枚なのだ。
1968年の晩秋、ミュンシュが新設されたパリ管弦楽団との楽旅中に急逝した際、フジテレビが追悼番組を組み、彼が1962年に日本フィルを振った際の映像をまとめて観る機会があったのだが、その指揮姿が凄まじかった。全身から音楽が放散されるような、といえばいいのか、その一挙手一投足が、彼の求める音楽を表現していた。天使のように柔和に微笑むかと思えば、鬼神のような形相で睨みつける(とりわけ《ダフニスとクロエ》が凄かった)。後にも先にも、あんな壮絶な指揮ぶりは観たことがなく、半世紀近く経っても生々しく憶えている。
噂によればミュンシュはリハーサルでは細かい指示を出さずざっと流し、本番での演奏にすべてを賭けていたそうな。指揮台上であらゆる身体表現を駆使して、彼が感じている音楽のなんたるかを楽団員にじかに伝達しようとする。その凄絶無比の指揮姿に打ちのめされたのである。彼の身体からは強烈なオーラ──当時はまだそういう言葉を知らなかったが──が発散されていて、技術的には貧弱だったに違いない日本フィルは否応なしに引き込まれ、紛れもなく「ミュンシュの音楽」を全身全霊で奏でていた。最後にミュンシュが「君たちは私の望む音を充分に出した」と語ったというのも、あながち過褒ではなかっただろう。
そんな往時の記憶を呼び起こしながら、このアルバムを手に取った。1962年にボストン交響楽団の常任を辞してから67年に新生パリ管弦楽団の初代指揮者に就くまでの数年間、フリーだったミュンシュは世界各地のオーケストラを客演して廻った。1962年に東京で日本フィルを振ったのもその一環だったし、66年にブダペスト交響楽団と「幻想交響曲」を、67年にミュンヘンでバイエルン放送交響楽団とベルリオーズの「レクイエム」を共演したのも、すべてこの時代の所産である。
それにしても想像だにしなかった客演である。晩年のミュンシュと冷戦下のソ連の楽団という組み合わせに意表を突かれた。永年にわたりフランス近代音楽から遠ざけられてきたモスクワの奏者たちが果たして順応できるだろうかという懸念が先立ち、聴き始めるのに少なからず勇気が要った。
ところがどうだ! 冒頭のオネゲルの素晴らしさは! 垂れこめる暗鬱な空気、稲妻さながら切り裂く激烈なリズム、沈潜と戦慄のアダージョ。戦時下の底知れぬ苦渋と、そこに見出された一筋の光明。この交響曲が体現する精神を、フランスの指揮者とロシアの楽人たちがごく自然に共有するさまに、大いなる驚きをもって聴き入った。これは紛れもなくミュンシュの望んだとおりのオネゲルだ。
続くラモー《ダルダニュス》組曲は(今となっては)珍しいヴァンサン・ダンディ編曲版。正規録音こそないが、ミュンシュ鍾愛の曲だったらしく、各地で指揮している(シカゴ交響楽団との63年の実況録音がCDとDVDで既出)。モスクワの音楽家たちは不慣れなバロック音楽を慎重に奏でている。厳粛な名演といえよう。
次の《海》は恐らく賛否両論、最も好悪が分かれる演奏ではないだろうか。もともとミュンシュのドビュッシーは他のフランス人の誰とも大きく異なり、熱っぽい指揮ぶりは通常の範疇を逸脱し、燃えたぎる噴火口さながらの激しさなのだ(パリ管弦楽団の披露演奏会で振った最晩年の《海》実況がその例)。
ただでさえそうなのに、そこにロシア奏者たちの我流の解釈(とりわけヴィブラートたっぷりの金管群による容赦なき強奏)が加わると、もうこれは違和感の相乗効果といおうか、常人の思い描く《海》のイメージから遠く隔たってしまう。こんな異形のドビュッシーがあるものか、絶対に容認できないという向きもおられようが、だからこそミュンシュが遙々モスクワまで出向いた甲斐があろうというものだ。
最後のルーセル《バッカスとアリアドネ》も基本的には同工異曲の行き方で、あちこち金管が野放図に炸裂する演奏なのだが、ぎりぎりのところでフランス音楽の範囲内に踏み留まっている。ドビュッシーよりもルーセルのほうが多様な演奏スタイルを許容する音楽ということなのか。急き立てるような終盤の盛り上がりはいかにもミュンシュらしく、もはやフランスかロシアかの区別はどうでもよくなる。
改めて全プログラムを通して聴いてみる。書き漏らしたが、この特別な一夜は当時の最新機材によりステレオ収録された。当時まだモスクワやレニングラードの放送局ではモノーラル収録が普通だったから、これは異例中の異例といえよう。その英断のお蔭で、半世紀後の我々も「斬れば血の噴出するような」ミュンシュの音楽を細部まで立体的に追体験できる。音質はきわめて良好である。
今ふと気づいたのだが、このミュンシュの演奏会の僅か三か月前の1965年2月、同じモスクワ音楽院大ホールでは四夜連続でエヴゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルの特別演奏会が催され、これらもステレオで完全収録されている。しかも驚くべきことに最終夜の2月28日、
オネゲルの第三交響曲がモスクワ初演されているのだ! できすぎた偶然というほかない。
だから、5月にモスクワ音楽院に参集したモスクワっ子たちにとって、オネゲルの音楽は必ずしも異質で耳に馴染まぬ体験ではなかったことになる。考えてみれば、戦前の1928年オネゲルは訪ソしてレニングラード・フィルの指揮台に立ち、自作を振っている(「ニガモンの歌」「夏の牧歌」「勝利のホラティウス」「パシフィック2.3.1」ほか)。1931年にはソ連で「パシフィック2.3.1」を題材とする実験的な短篇音楽映画すら製作されていた(ツェハノフスキー監督作品)。
オネゲルはソ連と決して無縁でなかったし、第二交響曲がまざまざと表象した戦時下の苦難と勝利への渇望は、戦後二十年目のロシア人にも切実な主題と思えたに違いない。ミュンシュがモスクワの楽団を指揮した演奏会で、オネゲルの第二交響曲が他の曲目を凌ぐ凄絶な名演となったのも蓋し当然というべきだろう。