1936年3月、プロコフィエフは意気揚々と祖国に帰還を果たした。1918年夏、革命政府の許可を得て出国し、アメリカとヨーロッパで国際的な作曲家としての地歩を固めた彼は、ソ連政府から水面下で再三の帰国要請を受けていた。1927年に実現したモスクワ、レニングラードへの演奏旅行は目覚ましい凱旋公演となり、その後も毎年のように一時滞在を繰り返していたから、彼が住まいをパリからモスクワへと移し、家族と共に永住を決断したのはごく自然の成り行きだった。
帰国を目前にした36年1月末、ソ連邦共産党機関紙『プラウダ』にショスタコーヴィチを激しく非難し、その近作オペラを「音楽でなく支離滅裂」だと断じた無署名記事が載った。このあと永年にわたり続くスターリン政権による芸術弾圧の不吉な前触れである。プロコフィエフ夫妻はほどなくその報に接していたが、それでも彼のソ連永住の方針は揺るがなかった。「こういうことは長くは続かない」とプロコフィエフは楽観視していたのである。
ここ数年間というもの、プロコフィエフはパリの音楽界に倦んでいた。「フランス六人組」らの軽薄で享楽的な楽曲ばかり持て囃される風潮にはずっと違和感があったし、いつまでもストラヴィンスキーの後塵を拝して二番手に甘んじるのにも嫌気がさした。かてて加えて、彼の最大の理解者だったディアギレフはすでに没し、もう一人の支援者である指揮者クーセヴィツキーはとうにアメリカに活動拠点を移してしまった。これ以上パリで不本意な環境を耐え忍び、演奏旅行に忙殺される生活はもう打ち止めにしたい。祖国から引き離された芸術家が根無し草のように創作力を弱らせていくことを、プロコフィエフは何よりも恐れていた。
帰国後の彼の創作活動は順調に開始された。モスクワの中央児童劇場の主宰者ナターリヤ・サーツからの急な依頼で台本・作曲を手がけた音楽物語《ペーチャと狼》は好評裏に迎えられたし、すでに完成した大作バレエ《ロミオとジュリエット》はボリショイ劇場での初演を待つばかりである。
翌37年は文豪プーシキンの没後百周年にあたっており、彼はその実行委員会から《ボリス・ゴドゥノフ》と《エヴゲニー・オネーギン》の劇音楽、映画《スペードの女王》のための音楽を委嘱されている。ムソルグスキーやチャイコフスキーと同じ題材に三つ同時に挑めるなんて、ソ連の作曲家としてこれ以上の栄誉はない。さらに37年はロシア革命二十周年の節目でもあり、それを祝賀する記念カンタータも放送局から注文された。やはりソ連帰国は正しい決断だった、と彼は実感したことだろう。
ところが事態は思いもよらぬ方向に展開する。彼に《ペーチャと狼》を委嘱した児童劇場のサーツ女史は翌37年夏スパイ容疑で逮捕され、シベリアの強制収容所へ送られてしまう。《ロミオとジュリエット》の共同脚本家アドリアン・ピオトロフスキーも逮捕され、銃殺刑に処された。ボリショイ劇場でも芸術監督ヴラジーミル・ムトヌィフの逮捕・処刑を皮切りにスタッフの更迭が相次ぎ、《ロミオ》上演の目途は立たなくなってしまう。同様の混乱はプーシキン百年祭にも波及し、疑心暗鬼になった委員会が記念行事そのものを中止したため、すでに仕上がっていたプロコフィエフの三つの作品はすべてお蔵入りとなった。心血を注いで完成させた「革命二十周年記念カンタータ」も演奏が許可されなかった。彼にカンタータ作曲を斡旋した全ソ放送委員会の責任者ボリス・グスマンもやがて逮捕・処刑される。
こうしてプロコフィエフはスターリンの大粛清の渦に巻き込まれた。誰もが身に覚えのない罪で収監される危険に曝された。身の毛もよだつ悪夢の時代の到来である。
(次につづく)