晴れた日の夕暮時に西の空を見遣るのが習慣になってしまった。ただし水星を拝むのはもう叶わない。それもそのはず、今は水星の「合」すなわち太陽に近い位置に来てしまったので、地球からは全く観測できない時期なのである。とはいえ、闇が深まるとオリオン座の雄姿が中空に現れ、ベテルギウス(オリオン座α星)、シリウス(大犬座α星)、プロキオン(小犬座α星)からなる「冬の大三角」が壮大な眺めを形づくる。冬の夜空は実に豪勢なのだ。
前にも書いたことだが、野尻抱影の入門書『天体と宇宙』に導かれ、天空の不思議に惹きつけられた小生は、親にねだって簡便な望遠鏡を手に入れるとともに、小学高学年から中学生時代にかけてコペルニクスやガリレオの伝記を読み耽り、『天体の回転について』『新科学対話』『天文対話』(すべて岩波文庫版)、果てはアリストテレスの『天体論』、プトレマイオスの『アルマゲスト』など古代の理論書にまで手を延ばした。当然ながら、それらは無知な子供にとって豚に真珠、猫に小判さながら、片鱗すら理解できなかったのが実情だった。僅かにブレヒトの戯曲『ガリレイの生涯』を千田是也の翻訳で読んで昂奮したのが収穫だったか。
埼玉の田舎に住む小生は新知識を求めてしばしば上京し、神保町の東京堂書店(木造の古びた建物で、歩くと床板がきしんで音をたてた)の二階にあった科学書売場に入り浸っては、それら天文書目を物色したものである。この習慣は高校の初め頃まで続いていたと思う。1960年代のことだ。
とりわけ羨望の的だった一冊があって、いつも書棚から取り出しては飽かず眺め、再びそっと定位置に戻す行為を繰り返していた。それは18世紀にヨーロッパで刊行された星座図譜をまるごと覆刻翻訳した贅沢な一冊だったのだが、親がかりの身には高嶺の花、おいそれと手を出せる代物ではなかった。
実は上述した野尻抱影の本には、この図譜から転載した星座の絵があちこち散りばめられ、とりわけオリオン座と牡牛座を大きく見開きで掲げた一図(
→これ)は、田舎の天文少年の憧憬の念をいたく刺戟してやまなかったものだ。
暫くすると小生の天文学や科学史に対する興味はあっさり雲散霧消した。視力が弱いため望遠鏡での観測には不向きと悟ったこともあるが、最大の理由は西洋の美術や音楽への熱中が始まり、他の分野への関心を押し退けてしまったためだ。それからというもの、書棚の一廓を占めていた天文書籍群は片隅に追いやられ、顧みられる機会もなく埃を被ったまま今日に至っている。
それから幾星霜が過ぎ去っただろう、1990年代の初め頃と記憶するが、たまたま神保町で九段通りの古本屋をあてどなく梯子していた折り、とある書棚で一冊の書物の背に目を留めた途端、稲妻の不意打ちを喰らったような衝撃を覚えた。そこには「
フラムスチード 天球圖譜」の文字が記されていたのである。
この書物だったのか。四半世紀以上前に東京堂書店で目にしたものよりも判型が小さいような気がしたが、頁を捲ると見憶えある銅版画の星図が次々に出てくる。やはりあの本に違いない。奥付をみると、なんと戦時中の刊行である。
ちょっと値が張るが、状態はまずまず完好だ・・・と逡巡する間もなくレジに差し出した。この一冊と再会したのも何かの運命なのだろう。
恒星社編
フラムスチード 天球圖譜
編者 土居客郞
飜譯 村上春太郞
解説 藪内清、野尻抱影
昭和十八年/皇紀二千六百三年
恒星社
奥附に記された発行日は昭和十八(1943)年七月八日。ガダルカナル島撤退、山本五十六の戦死、アッツ島玉砕と戦況がじわじわ悪化するなかで本書の刊行が粛々と進められた事実に驚きを禁じ得ない。星図は船舶航行に不可欠で軍事的にも有用と看做されたとはいえ、英国の天文学者による十八世紀の星図譜──かかる風雅で泰然たる不要不急の出版物が苛烈な戦時下でも出版を許されたとは俄かに信じ難いことだ。奥附によれば初版の刊行部数は千五百。
因みに訳者の
村上春太郎は日本の天文学界の草分けで月の運行研究の第一人者、編者
土居客郎とは版元たる恒星社(のち恒星社厚生閣)の創業社主である(本名/土井伊惣太)。解説のご両人について説明の要はあるまい。
標題の「フラムスチード」とは英国の天文学者で倫敦東郊のグリニッジ天文台の初代台長
ジョン・フラムスティード John Flamsteed(1646~1719)のこと。彼はここを拠点に望遠鏡による天体観測に没頭した。完璧を期するフラムスティードはその成果を一向に発表せず、業を煮やしたアイザック・ニュートンとエドモンド・ハリー(「ハレー彗星」で名高い)は彼に無断でデータを盗用し王立協会から恒星表を公刊したため裁判沙汰になった(フラムスティードの勝訴)。フラムスティードは結局ライフワークを仕上げぬまま世を去ったため、歿後に未亡人らが尽力して畢生の労作『
大英恒星目録 Historia Coelestis Britannica』(1725) と挿絵入りの星座帖『
天球図譜 Atlas Coelestis』(1729)とを送り出した。
望遠鏡を用いた精度の高い観測データを存分に生かしたフラムスティードの遺著は当時としては劃期的な成果として評価され、とりわけ後者は英国の歴史画家
ジェイムズ・ソーンヒル James Thornhill(1675/76~1743)の図案による美麗で精緻な銅版画による星座画が目醒ましく、星図譜としての実用性と相俟って一世紀にわたり版を重ねるロングセラーとなった。ソーンヒルによる星座画の一例として、蛇座と蛇遣座の場面を引いておこう(
→これ)。ご覧のとおり、バロック風の神話人物の描写に雅趣があり、挿絵本としての鑑賞にも堪える。
反面この初版本はあまりに大判すぎ(
→これ)、実用に供するには使い勝手が悪かったため、のちに出た改訂版では観測データの更新・増補に加え、判型の大幅な縮小が図られた。例えば1776年にパリで刊行された仏語版『
フラムスティード天球図譜 Atlas céleste de Flamstéed』は、版面が初版本の四分の一にも満たぬハンディな八折判サイズである(
→両者の比較)。
実のところ、この1776年刊の仏語版こそが恒星社による覆刻版の底本となったものである。そのことは巻頭に掲げられた扉の図版(
→これ)からも明らかだ。ここに「第二版 seconde édition」とあるのは英国で出た最初の版に対する増補改訂版を意味し、編集にあたった
ジャン・フォルタン Jean Nicolas Fortin の名に因んで「
フォルタン=フラムスティード星図」と呼び倣わされている。恒星社版はこの仏語版の判型をほぼ踏襲したばかりか、同書の本文まで訳載しており、そこには初版との内容・図版の異同に関する記述も含まれる。
どうして初版ではなく第二版が覆刻されたのか、事の経緯に関しては、巻頭の「刊行の辭」にはっきり釈明されている。すなわち、
本書ノ原本ハ, 京大名譽敎授小川琢治博士ノ御所藏ニナルモノデアル。初版後約80年ヲ經テ改訂サレタ第二版デアルガ, ソレ自身旣ニ200年近クヲ經タ稀覯書デアル。圖版原形ガ異狀無ク保タレテキタノハ全ク天運ト稱スベキデアラウ。
確かにそのとおりだ。たとい「第二版」とはいえフラムスティード『天球図譜』の現物が七十年前の日本に将来していたこと自体が驚きだし、それが太平洋戦争の只中に覆刻刊行されたのは奇蹟に近い出来事だったのである。
小川琢治博士は戦前の地理学界の泰斗で、湯川秀樹・貝塚茂樹の実父。なお、文中で初版後「約80年」を経た改訂版とあるのは、「約50年」の誤りであろう。
因みに国立情報学研究所の CiNii で現在の大学図書館の蔵書を検索した限りでは、1729年刊の初版はどこにも所蔵されておらず、1776年の仏語版ですら京都大学理学部中央図書室が僅かに一冊架蔵するばかり(恐らくこの覆刻に用いられたのと同じ、小川博士旧蔵本であろう)。今も昔も『天球図譜』の原本はとびきりの稀覯本なのだ。
ところで、半世紀を隔てた初版と第二版では版元がイギリスからフランスへと変わったため、言語表記がフランス語に改められたほか、そもそも判型が全く異なるのだから星座図も流用できず、新たにすべて版刻し直したことが明らかだろう。対応する双方の図版をじっくり見較べると、興味深い差異が浮かび上がってくる。
まずは初版と第二版とで、思い出深いオリオン座と牡牛座を中央に配した一図を比較してみよう(
→初版、
→第二版)。
ご覧のとおり、一見したところ両者は瓜二つである。各星座ごとに附した名称の表記が、前者はラテン語(Taurus, Gemini, Perseus)なのに対し、後者では仏語(Le Taureau, Les Gemeaux, Persée)に直されている点と、個々の恒星の図示法(前者は大小の〇印、後者は光芒のある☆形)が異なる点を除けば、主役たるオリオンや牡牛の描写はよく似ている。第二版もまた元のソーンヒルの図像表現をできるだけ忠実に受け継いだものだとわかる。目立った相違は、初版では描かれなかった銀河(天の川)が新たに図示された点くらいだろう。
ところが別の一図、すなわち鷲座を中心に夏の南天を描き出した画面に目を転ずると、両者の違いは誰の目にも明らかになる(
→初版、
→第二版)。
まず初版を眺めると、中央に
鷲座(Aquila)、その西隣に
海豚座(Delphinus)、両者の上方には
鵞鳥座(Anser)を口に咥えた
小狐座(Vulpecula)、その足許に
矢座(Sagitta)が描かれている。一等星アルタイル(彦星)を擁する鷲座を除けば、馴染の薄い星座名ばかりだが、海豚座と矢座は古代からある由緒正しい星座で、プトレマイオスの設定した四十八座にも含まれる。小狐座はポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが1687年に創設した新しい星座であり、当初は「鵞鳥を伴う小狐 Vulpecula cum ansere」乃至は「小狐と鵞鳥 Vulpecula et Anser」と呼ばれた由。フラムスティードは逸早くこれを追認し、自らの星図に加えたのだろう。現在では全体をひっくるめて「小狐座」と称する。
次に第二版を繙くと、驚いたことに当該図版はまるで様相を異にしている。鷲座(l'Aigle)、海豚座(le Dauphin)、小狐座(le Renard)と鵞鳥座(l'Oye)、それに矢座(la Flèche)。ここまでは上述の初版と同じだが、それらに加え、未知の星座がいろいろ附加されて、夏の夜空は思いがけず喧騒を極める。
まずは鷲座のすぐ南に全裸の美少年が浮遊するのが目を惹く。これは
アンティノウス座(Antinous)といい、二世紀のローマ皇帝ハドリアヌスが寵愛した少年の夭折を悼んで設置した星座とされる。プトレマイオスの四十八座には含まれないが、『アルマゲスト』に記載があり、ティコ・ブラーエの星表にも含まれている。それなりに由緒ある星座だったが、フラムスティードの初版では何故か省かれていたものだ(現在では廃止され、鷲座の一部分をなす)。
アンティノウスのちょうど足許あたり、銀河の只中には
楯座(l'Écu de Sobieski)が描かれる。これはヘヴェリウスが1684年に新たに創設した星座で、恩義のあるポーランド王の名を冠して「ソビエスキの楯 Scutum Sobiescianum」と命名されたものだ。かてて加えて、画面右上には木の枝に蛇が絡まったような奇妙な図柄が見える。これは「
枝とケルベルス」座(le Rameau et Cerbere)といい、やはりヘヴェリウスが1687年の星図で「ケルベルス座」と命名したものだが、こちらは現在では廃れてしまい、ヘルクレス座の一部に組み込まれた。
最も不可思議で謎めいているのが、そのケルベルス座の南、鷲座の東に描かれた牡牛の姿(
→これ)である。こんな場所に牛の星座があっただろうか(云うまでもなく牡牛座は冬の星座である)。
傍らに添えられた仏語の名称は「
ポニャトフスキ王の牛 le Taureau Royal de Poniatowski」。まるで聞いたことのない星座名だが、調べてみるとポーランドの聖職者・天文学者マルチン・オドラニツキ・ポチョブットが1777年に創案した新しい星座だそうで、時のポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ二世アウグスト)に因んでこう名づけられた。星の並びはどう見ても牛に見えないが、王家の紋章の牡牛に因んだものという。
お抱え学者の追従めいた命名に過ぎなかったためか、この星座はほどなく廃れてしまい、構成していた星々は蛇座・蛇遣座・鷲座に組み込まれてしまった由(ウィキペディアの記述による)。皮肉なことに、この星座を献呈されたポニャトフスキ王の御世にポーランド(ポーランド=リトアニア連合王国)は脆くも崩壊し、広大な国土はロシア・オーストリア・プロイセン領に分割されてしまった。奇しくも星座と国家とがどちらも同じ運命を辿ったのだ。
このように図版を仔細に検討してみると、恒星社の覆刻版『フラムスチード 天球圖譜』が底本と仰いだ「第二版」は、フラムスティードの構想そのままでなく、他の学者たちが考案した星座を新たに附加する形で、かなり無遠慮に増補改訂されていたのが明らかだ。そこには「第二版」が刊行された1776年の時点での最新情報(1719年に歿したフラムスティード自身は与り知らぬ新知見)までが盛り込まれていた──と、そう書きかけたところで、ちょっと待てよ、と思い直した。
1777年に命名創設された「ポニャトフスキ王の牛」座が、それに先立つ1776年の刊行になる『天球図譜』第二版に早くも図版入りで掲載されている。理屈上あり得ない不可解な事態だ。この齟齬を一体どう説明したらいいのか。
さらに探索を進めてみると、どの分野にも具眼の士がおられるもので、すでに世界各地の天文愛好家たちがこの問題について考察していることが判明した(例えばイタリアの
→ジャンジ・カリエリス氏および
→フェリーチェ・ストッパ氏、オランダの
→ヘンク・ブリル氏、そして日本の竹迫忍氏ら)。彼らの委曲を尽くした推論を総合すると、事の次第はざっと以下のとおりだったらしい。
すなわち、1776年に仏語で『天球図譜
Atlas céleste』(第二版)が刊行された段階では、当該図版には問題の「ポニャトフスキ王の牛」座は描かれていなかった(
→これ)。この時点でまだ創案されていなかったのだから当然であろう。ところがしばらくして「第二版」が増刷された際、刊行者はポチョブットの発案を逸早く受け入れて、最新の星座を銅版に刻み加えた。それは恐らく1778年から82年になされた変更だろうと、上述のストッパ氏は推察する。ところがこの「牛あり」増刷版もまた、扉頁に1776年の年記をもつ同じ「第二版」のままで刊行されてしまったのがそもそも混乱の発端だった。その一冊がたまたま京都大学の小川博士の手に渡り、恒星社の復刻版の底本とされた。正確にいうと、それは「第二版」そのものでなく、これを増補改訂した増刷本だったのである。
さらに興味深いことに、上述の研究者のひとり竹迫忍氏が入手した『天球図譜』第二版には当該図版が二枚ダブって収録されており、しかも元の「牛なし」図版の上に「牛あり」図版が重ね貼りしてあるのだという(
→フラムスティード星座図絵(第2版,1776)の謎)。察するにこれは版元にまだ在庫が残っていた「第二版」に、最新情報を加味した図版を貼付して販売した「応急増補版」だったのだろう。
その後フランス革命を経た1795年、仏語版『天球図譜』の「第三版」が満を持して刊行された(
→その扉)。案の定ここではさらに新たな星座がいろいろ増補されており、王冠・剣・ペン・月桂樹からなる「
フリードリヒの栄誉」座や、天文学者ウィリアム・ハーシェルの庇護者たる英国王ジョージ三世を讃えた「
ジョージの竪琴」座や、そのハーシェルの天王星発見を記念した「
ハーシェルの小望遠鏡」座などが新たに描き込まれた。いずれも暗い星々を無理やり繋ぎ合わせたご都合主義の思いつきだったため、普及せずに廃れてしまった不人気な星座ばかりである。
それにしても、とつくづく思う。京都の小川博士が入手した仏語版『天球図譜』がこの「第三版」ではなくて本当によかった。もしもそうだったならば、あのオリオン座と牡牛座の壮麗にして雄渾な一図も、取って付けたような夾雑物(「ハーシェルの小望遠鏡」と「ジョージの竪琴」)のあらずもがなの闖入によって台無しにされ、見るも無残で興醒めな光景に成り果てただろうから(
→これ)。神聖な牡牛の鼻面に望遠鏡を突きつけるなんて、いくらなんでも非道すぎる所業ではないか!