「中級編」なんて偉そうに掲げてはみたものの、デュカやグラズノーフに関して未だに小生は初心者のままなのだから実に心許無い。ただ単に手元にあるディスクを試しに聴いてみるだけの話だ。
"Leonard Slatkin -- Paul Dukas"
デュカ:
交響曲 ハ長調
バレエ《ラ・ペリ》(ファンファーレ+舞踊詩)
交響詩「魔法使の弟子」
レナード・スラットキン指揮
フランス国立管弦楽団1996年11月29日~12月1日、
パリ、ラディオ・フランス、サル・オリヴィエ・メシアン
BMG RCA Victor 09026-68802-2 (1999)
→アルバム・カヴァー レナード・スラットキン指揮によるオルケストル・ナシオナルの録音があるとは、このディスクを手にするまで知らなんだ(どうやら唯一のCDらしいが)。ジャン・マルティノンによる同曲の録音からほぼ四半世紀後に収録された交響曲を聴き始めて、合奏能力が見違えるほど向上し、緻密な機能的アンサンブルが実現しているのに驚く。ここで聴取されるのはフランクやショーソンの衣鉢を継ぐ香気豊かな交響楽ではなく、管弦楽法に通暁した作曲家の手になる絢爛たるショーピースの趣だ。マルティノン盤に横溢したフランス色はほぼ一掃され、無国籍的な機能主義の演奏になったのは、米人指揮者ひとりの責任ではなかろう。
だから駄目な演奏というのでは決してなく、「ラ・ペリ」での微に入り細を穿つ彫琢、劇的展開の巧妙さには目を瞠る。スラットキンの読譜能力、楽団統率力は半端でない。時代の要請に応えた新しいデュカ演奏の典型というべきか。
"Glazunov: Symphony No. 8 etc."
グラズノーフ:
交響曲 第八番*
プーシキン百年祭記念カンタータ**
抒情詩***
メゾソプラノ/リュドミラ・クズネツォーワ**
テノール/フセヴォロド・グリヴノフ**
ワレリー・ポリャンスキー指揮
ロシア国立交響カペラ管弦楽団
ロシア国立交響カペラ合唱団**2000年2月29日、モスクワ、モスフィリム新スタジオ**、2000年4月13日***、2002年8月*、モスクワ音楽院大ホール
Chandos CHAN 9961 (2003)
→アルバム・カヴァーグラズノーフの第八交響曲は昔からわが鍾愛の曲。なにしろ中学生の頃にトランジスタ・ラヂオから流れてきて(電波状態の悪いラジオ関東の早朝番組)たちまち惹き込まれた。爾来ずっとマイ・フェイヴァリットなのだから、病もはや膏肓に入ったというべきだろう。九つある彼の交響曲(ただし第九番は未完)のうちで間違いなく最上の成果だろうし、古典的な枠組のなかに抒情的な旋律美が無理なく融和したロシア交響楽史上に輝く「知られざる傑作」だと思う。
ほぼ半世紀前ラヂオで耳にしたのはエヴゲニー・スヴェトラーノフがモスクワ放送交響楽団を指揮したLP(1963録音)だった。この演奏はかつて一度LPで再発(
→これ)されたきり、CD時代には一顧だにされず忘却の淵に沈んでしまった。若々しい覇気と情熱のたぎる凄演なのに勿体ない話である。というわけで、それに代わるCDをいろいろ物色するのだが、あれに匹敵する演奏になかなか遭遇できない。そもそもスヴェトラーノフ自身による再録音すら遠く及ばないのだ。
さて手元に七、八種類ほど集まったグラズノーフの第八交響曲のCDのなかで、このポリャンスキー盤には特に突出した個性があるわけではないが、テンポ設定に無理がなく、響きのバランスもよく整えられていて好感がもてる。ここで聴ける彼の手兵(
Государственная академическая симфоническая капелла России)はソ連崩壊前の前身を国立文化省交響楽団といい、演奏水準は相当に高い。併録された秘曲「プーシキン生誕百年」カンタータは典型的な機会音楽ながら、声楽入りの平明な楽曲であり、もともと合唱指揮者だったポリャンスキーは難なくこなしている。最後の「抒情詩」は可憐な若書きの小品。かつてロジェストヴェンスキーやネーメ・ヤルヴィの録音があったと記憶する。
ポリャンスキー指揮によるグラズノーフ交響曲シリーズは21世紀に入って続けざまに出たものの、どういうわけか第七番を残したまま中絶した。Chandos社との契約関係がこじれたのか、2005年頃から新録音がぱたりと途絶えて今日に至る(ライセンスを取得したBrilliantレーベルから、別人の「第七」を補った変則的な交響曲全集として廉価で出た)。好演奏による好企画だったのに残念なことだ。