あれやこれや心配事が重なった一週間だったが、見事な錦秋日和なので気分転換を兼ねて横浜まで遠出。港の見える丘に立つと心のこわばりが幾分ほぐれる気がした。折角ここまで来たのだからと
大佛次郎記念館にも立ち寄る。生涯をたどる常設展示に加え、「大佛次郎と子どもの文学」と題したコーナーで懐かしい絵本『スイッチョねこ』と再会できたのが嬉しかった。
館に付属するティールーム「霧笛」で一服、美味しい珈琲をいただく。この床しい店名は横浜を舞台とする大佛作品に因んでおり、小説そのものは寡聞にして未読なものの、同題の映画(村田實監督、1934)だったら観た憶えがあるぞ、などと由無し事をつらつら考えていたら四時を疾うに回り、すっかり日も傾いた。
ここから目的地の
横浜市イギリス館(旧英国総領事公邸)までは指呼の距離、歩いて一分もかからない。ここに小ぢんまりした由緒ありげな洋館があるのは知っていたが、外観を眺めるばかりで足を踏み入れたことは一度もなかった。
この建物で今夕これから演奏会がある。受付を済ませると、控えの間で英国風に紅茶と洋菓子のサーヴィス。珈琲の直後だが折角なのでありがたく頂戴する。隣室には四十ほどの椅子が並べられていたが、すでにあらかた埋まっていたので最後列に着座。かかる小部屋なら充分この席でも愉しめるはずだ。
アフタヌーンティー・コンサート
英国の風景と民謡
開場15:30
ティータイム 15:45-
レクチャーコンサート 16:30-
◆
ヴァイオリン/小町 碧
ピアノ/加納裕生野
◆
ヴォーン・ウィリアムズ:
イギリス民謡による六つの練習曲 (1926)
揚げ雲雀 (1914)
ホルスト:
マヤ Maya + 春の歌 A Spring Song ~五つの小品 (1902)
ブリテン:
子守唄 ~ヴァイオリンとピアノのための組曲 作品6 (1935)
おゝなんと悲しい O Waly, Waly ~イギリス民謡編曲 (1943, 小町碧編)
リヴァリー(起床喇叭) Reveille (1937)ロンドン在住の小町碧さんが里帰りしてリサイタルを催す。今回はこの横浜での会が唯一と聞いて、遠路を厭わず出向いた次第。彼女の生演奏はちょうど一年前に、英国近代のヴァイオリン奏者がいかに作曲家を触発したかを検証するレクチャー・コンサート(
→拙レヴュー)と、ディーリアス(第二番)とエルガーのソナタを中心にしたリサイタル(
→拙レヴュー)とを続けざまに聴いて以来である。
今年に入ってから彼女はドビュッシー、ディーリアス、ラヴェル、グリーグを収めたデビュー・アルバムを世に問い、大学院時代ずっと探究してきた世紀末におけるディーリアスとゴーギャンとの関わりを演奏とライナーノーツとで検証してみせた(
→拙紹介)。この初録音は各方面から注目され、共演者キャラハンと共にBBCのラジオ番組に招かれてスタジオで生演奏を披露したこともあった。
一年ぶりに耳にする小町さんの演奏がどのように深化変貌しているのか。正味一時間ちょっとの小さな会とはいえ、興味は尽きないのである。
小町さんの演奏会にはいつも明確な趣旨と主題が設定されている。今回の場合、それはエルガー以降の英国音楽復興において民謡が果たした役割の大きさを浮き彫りにすること──そう要約できそうだ。
冒頭に置かれた
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの「英国民謡による」六曲の練習曲はその何よりの証だろう。小町さんは六曲それぞれの民謡の出自(ノーフォーク、サマーセットなど)を配布資料の地図で示すとともに、RVWの住居「リース・ヒル・プレイス(Leith Hill Place)」(サリー州)とその周囲の風景にまで言及し(彼女はつい最近この館で演奏したそうな)、彼の音楽が紡ぎ出されるうえで自然環境の果たした役割の大きさを強調した。土地土地の民謡とそれを生んだ美しい自然こそが近代英国音楽を育んだ揺籃なのである。
ただしRVWのこの練習曲集はもともとチェロ用に作曲され、ヴィオラ、クラリネット、チューバなどさまざまな楽器のためにアレンジされた楽曲なので、必ずしもヴァイオリンの魅力を引き出すように書かれていない憾みがある。
続く「揚げ雲雀 The Lark Ascending」は初めからヴァイオリン用(管弦楽伴奏)に書かれた楽曲であり、この楽器ならではの震えるような高音域の主題が雲雀の鳴き声を巧みに模倣している。RVWがこの曲を作曲したケント州の港町マーゲイトはイングランド東南端に位置し、RVWは第一次大戦勃発時ここから船出する艦隊を丘から遠望しながら曲想を得たというエピソード(作曲家の妻アーシュラがそう説くが異論もある)も伝えられており、いかにも平穏で牧歌的なこの曲の背後に禍々しい時代と場所が刻印されている可能性を小町さんは示唆した。
その「揚げ雲雀」の演奏について云うなら、彼女のヴァイオリンは昨年に比べてフレージングに更に磨きがかかり、ボウイングにも自信と的確さが増したように思う。数多くの実演経験の賜物だろう。先日CDで耳にしたタズミン・リトルによる同曲の録音にはさすがに及ばないものの、自発的な抒情性の発露に加え、くっきりとした輪郭をも具えた、たいそう好感のもてる演奏だった。
「揚げ雲雀」という標題はジョージ・メレディスによる同題の長詩に基づくもので、刊行譜の冒頭には詩の抜粋が掲げられている由。今回のプログラム解説にはその原文と、小町さん自身の邦訳とがちゃんと掲げられているのも、痒いところに手の届いた親切な配慮である。
続く
グスターヴ・ホルストの二曲は初期に書かれた小品で、滅多に演奏される機会がない(小生はもちろん初めて耳にした)。RVWと無二の親友同士だったというホルストだが、作風的に両者はかなり隔たっており、彼の場合は英国民謡との親近性もさほど感じられないように思う。
小町さんの解説のなかでは彼が十代の頃に住んだコッツウォルズの村ウィック・リシントン(Wyck Rissington)や、結婚してから住んだエセックス州サクステッド(Thaxted)の自然や風土との関わりが語られていたが、ホルストの音楽にそれがどのように反映しているかは正直なところ判然としない(少なくとも今日の二曲についてはそうだ)。とにかく彼は一筋縄ではいかぬ複雑な人物なのだろう。
そして三人目は
ベンジャミン・ブリテン。昔から接している割りに、どうも好きになれず縁遠く感じてしまう作曲家なのだが、今日の小町さんの選曲と演奏はそうした小生の苦手意識を解きほぐす方向に作用したように思う。晦渋な味わいの音楽がするりと腑に落ちて、心の深いところに届くような気がしたのだ。
ブリテンのヴァイオリン曲といえば、ピアノ伴奏つきの組曲(1935)と「リヴァリー(起床喇叭)」(1937)、そしてヴァイオリン協奏曲(1938~39)の三曲しか存在しない。いずれも戦前の若書きであり、すべて親友だったスペインの奏者アントニオ・ブローサのため作曲された。小生は生演奏では数年前にロンドンでダニエル・ホープ独奏で協奏曲を、昨年の小町さんのリサイタルで組曲を聴いた程度だから、とんと馴染薄。「起床喇叭」などは存在すら知らなかった体たらく。
英国音楽を民謡と風景との関連から再考するリサイタルの趣旨に照らして、ブリテンこそが最も相応しい作曲家かもしれない。彼の民謡への傾倒と偏愛は数多くの編曲作品から明らかだが、もうひとつ見逃せないのが彼の故郷の風景との深い結びつきなのだと小町さんは力説する。イングランド東端に位置するローストフトに生まれ、そこからほど近い海辺の小邑オールドバラに永く暮らしたブリテンにとって、もの寂しく荒涼たるノーフォーク州の海岸こそはまさに原風景だった。
小町さんのレクチャーによれば、今日の三曲はいずれもノーフォークの海浜風景と関係があるという。「組曲」の子守唄は夜の海辺を想定しており、ピアノ伴奏には波の音型が刻まれている。「起床喇叭」(かなり技巧的な難しい曲だ)には当時のブリテンとブローサの生活環境や気質の違いがポルトレ風に描写されている由。民謡編曲から小町さんがヴァイオリン用に改作した "O Waly, Waly" も、元歌の題は "The Water is Wide" といい、万里の海原で隔てられた恋人を偲ぶ内容なので、海辺と切っても切れぬ音楽なのだという。なるほど確かにそうだ、ピアノの三和音の繰り返しは寄せては返す波の描写に違いあるまい。
昨年のリサイタルでも小町さんはブリテンを採り上げたが(「組曲」全曲と、アンコールでの "O Waly, Waly")、どういう訳か印象に残らず、今回のほうが遙かに心に沁みた。背後に拡がる心象風景が彷彿とする演奏という気がしたのである。いつか彼女の弾くヴァイオリン協奏曲も聴いてみたいものだ。
・・・という訳で正味一時間、小町さんの解説を含めても一時間二十分ほどの小さな会だったが、ブリテンの創作の秘密に触れるような体験ができたのは収穫だった。この作曲家が少しずつ身近に感じられてきたのが嬉しい限り。
外に出ると秋の宵はもうとっぷり暮れて周囲はほの暗い闇だ。足早に坂道を下り、地下鉄で横浜駅に出てJRに乗り継いた。帰りの車中ではさっき記念館の売店で見つけた文庫本『
旅の誘い 大佛次郎随筆集』(2002、講談社文芸文庫)をしみじみ味読。珠玉の文章に時の経つのを忘れて読み耽った。