東北周游の旅疲れも癒えぬまゝ、一昨日の日曜またもや千葉縣内の名所舊蹟を經巡る小旅行に出た。「ディスカヴァー千葉」第三彈。先に野田で醤油工場を見學した餘勢を驅つて、引き續き今囘は
流山を訪ねることに衆議一決した。此の小都會は知る人ぞ知る味醂の郷だといふ。例に據つて一度も足を躙み入れてゐない界隈なので事前に少しばかり下調べしてから出向いた。
國鐡をば二本乘り繼いで武藏野線の新松戸驛で下車。驛前廣場から
流鐡(舊稱は總武流山鐡道)
流山線の幸谷
(かうや)驛まではほんの僅か、指呼の距離にある筈だが、建物の蔭に隠れてゐて捜すのに一苦勞した。この流山線は全長が僅か五・七粁しかなく驛數はたつたの六つ、舊式の二輛編成が單線を往復するだけの輕便鐡道と云つた趣。窓口で「一日フリー乘車券」を二枚購入し、いざ出發進行。
車窓の眺めは至つて長閑。緑の多く殘る田園風景を愉しんでゐたら、十分も經たぬ間に呆氣無く終點の流山驛に著到。小さな鄙びた驛舎である(
→此處)。
驛前の地圖をじつくり見て、其處から七、八分程歩いて
流山市立博物館へ。圖書館に隣接する小さな建物で入場無料。階段で二階へ上り、先史時代から近代までを要領良く辿つた展示を拜見。この地域が經て來た歴史をざつとお浚ひする。とりわけ「流山の味醂」のセクションで、江戸末期に此の地で白味醂の生產が始まり、明治・大正時代には「
天晴 あつぱれ」「
萬上 まんじやう」の二大銘柄が一世を風靡する等、繁榮の樣子をつぶさに窺へたのは豫想外の收獲だつた(
→展示)。
展示を一時間程觀た後、再び驛前に取つて返し、此の邊りかと見當をつけて裏路地へ折れると、人だかりのする一郭がある。どれどれと寄つてみると、古びた藏の前に掲示板が設置され、石碑には「
近藤勇陣屋跡」とある(
→此處)。
ヴォランチーヤ氏の解説に據れば鳥羽伏見の戰に負けた新選組は甲州勝沼でも敗北を喫し、捲土重來を期して流山の地に潜伏してゐた由。彼等が頼つたのは酒造業を營む大店「長岡屋」だつたそうな。近藤勇は單獨で新政府軍と交渉しやうとするが正體を見破られて捕縛・處刑、土方歳三らは辛くも逃れて會津へ、そして箱館五稜郭へと落ち延びて討死。卽ち此處は近藤・土方の永訣の場所なのである。こんな遠隔の地にまで新選組が足跡を殘してゐたとは知らなんだ。
その後は直ぐ裏の土手から
江戸川の川面を眺めたり(對岸は埼玉の三郷)、
流山キッコーマン工場(上述の「萬上」商標を繼承して味醂を生產)の周囲を步いたり(内部の見學は出來ない由)。そぞろ空腹を覺えたので驛近くの寂れた商店街で「
甲子屋 きのえねや」なる庶民的な豚カツ屋に足を止め、小生はロースカツ定食(飯大盛)、さほど空腹でない家人は玉子丼を註文。出て來たカツを齧ると豫想もしない美味に驚く。肉は汁氣を含んで柔らか、カツ衣はサクサク齒應へがあつて實に旨い。山盛の千切キャベツも豚汁も新馨も申し分ない。鄙には稀な(失禮!)隠れた名店だらう。晝食時は珈琲が無料といふ心遣ひも嬉しい。
食後は再び先程の裏路地へと戻り、陣屋跡に隣接した「
秋元」で土產に上等な味醂を購ふ。店番の老婦人の敎示に據れば、此の店は味醂「天晴」の醸造元で江戸から大正にかけ榮華を極めた秋元家の分家なのだといふ。白味醂を創案した本家の秋元三佐衞門(雅號は雙樹)は俳句を嗜み、小林一茶と親しかつた話(此れは先の博物館の展示にもあつた)や、大正期の當主もまた趣味人で日本美術院の後援者となり、菱田春草のパトロンとして、かの名作《黒き猫》(
→紀念切手)も《落葉》(
→此れ)も此の地にあつた(!)といふ驚くべき話を聞かされた。
殘念ながら金融恐慌時に米相場でしくじつた秋元家は急速に没落し、總ての財產を失つたさうな。今は昔、往時の流山の繁榮ぶりは想像を絶するものだつた。
再び驛に戻り流山始發の流鐡に乘車。雲一つない晴天下を步き廻つて草臥れたが、乘り放題切符を活用せねば損だといふ理屈で、次の平和臺驛で無理に途中下車。殺風景な街路を拔けて「
一茶雙樹記念館」を訪ねた(
→此處)。
俳人小林一茶は雙樹と號した味醂長者・秋元三佐衞門と昵懇の間柄で、流山の地を實に五十囘近くも訪問してゐる由。そこで兩者の濃やかな交遊に因んで此の古屋敷が公開されたといふ次第。ただし現今の建物は幕末の安政年間の遺構を移築したものなので、時代的に一茶とも雙樹とも無關係だが、江戸末期の富裕な町人の生活を偲ぶ足しにはならう。
とはいへ母屋の「雙樹亭」は貸切で句會が催されてゐて立ち入れず、大いに興醒め。御多分に漏れす此處も指定管理者に委託された半民營施設なので、大方儲け主義に走つてゐるのだらう。手狹な庭と僅かばかりの館内展示を觀て早々に退散。まあ入館料百圓だから諦めがつく。
何時の間にか陽が傾いた。時間があれば更に途中下車して小金城址にも行きたかつたが、慾張らず散策は此れで終了。平和臺から再び流鐡で幸谷へ戻つて、武藏野線に乘り換へたら眠氣がどつと襲つて來た。歸宅は午后五時きつかり。
さういふ次第で取り立てて特筆する程の散策ではなかつたが、あちこちの路傍で金木犀が匂つてゐたのが印象に殘る。そろそろ秋が深くなつた。