曽根中生監督が亡くなられたそうだ。かの鈴木清順監督の問題作《殺しの烙印》(1967)でシナリオ共同執筆に加わったのち、ロマンポルノ期の日活で監督デビュー、驚くほどの多作ぶりを発揮し(なにしろ一年に七本も監督した年がある!)、そのうちの何本かは日本映画史に残る傑作である。
80年代に入るとそれまでの濫作が祟ったのか失調気味に陥り、88年を最後にフィルモグラフィがぷっつりと途切れる。やがて映画界を忽然と去り、その後の消息は杳として知れず、生死不明と報じられもした。
ところが二十年以上を経た2011年、湯布院映画祭にゲストとして登場、大分で技術者・発明家として第二の人生を送っていると報じられた。その後も映画祭や特集上映の際に何度か人前に姿を現したらしいが、メガホンをとることは二度となかった。浮沈と波乱に満ちた人生はそれ自体がまるで映画のようだ。
昔のこととて曖昧な記憶なのだが、「パックインミュージック」の林美雄アナウンサーが曽根中生の名を口にするのを耳にした覚えがない。神代辰巳や藤田敏八や田中登や村川透の作品をあれほど推奨した林さんが曽根監督に言及しない筈もなかろうが、あるいは熱烈に推す作品がなかったということか。
だから曽根作品との遭遇は70年代も後半になって《
わたしのSEX調書 絶頂度》(1976)が初見参だったと思う。きっかけは明らかだ。蓮實重彦が口を極めて大絶賛していたからである。そして《
新宿乱れ街 いくまで待って》(1977)、《
性愛占星術 SEX味くらべ》《
女高生 天使のはらわた》(共に1978)、《
天使のはらわた 赤い教室》(1979)あたりまでは律儀に名画座で追いかけた。別系列の「嗚呼!!花の応援団」シリーズ(1976~77)も観るには観たが、こちらは苦手というか鼻白む思いがした。破天荒なギャクやユーモアは曽根監督に似合わない。
その後80年代に入って一般映画も撮るようになったのと引換に、曽根作品からロマンポルノ時代のクールな情感や緻密な演出力が失せてしまい、小林信彦原作による期待作《
唐獅子株式会社》(1983)は見るも無残、惨憺たる出来映えだった。だから以後の数本は観ず仕舞い。そしてその後の「長いお別れ」と相成る。
そんな訳で曽根作品の熱心な観客とは到底いえぬ小生だが、2010年に渋谷でやった回顧上映「消えゆく曽根中生!?」で久しぶりに《絶頂度》と再会して息を呑み、「曽根中生恐るべし」の感を深めたものだ(
→曽根中生は消えゆくのか)。
今の望みはといえば、かつて池袋の文芸地下で観た《
博多っ子純情》(1978)をば、状態のよいプリントで是非とも再見したい。清順師の《けんかえれじい》の衣鉢を継ぐ、瑞々しくもアナーキーな青春映画の傑作として、深くわが脳裏に刻まれているからだ。監督の死を追悼するのは、その機会までお預けにしておこう。