朧げな記憶を必死に蘇らせ、絞り出すように綴った「第一回サマークリスマス」の思い出は、1974年のその日その場にいた旧友たち──「パ聴連」=パック・林美雄を辞めさせるな!聴取者連合、およびその後身である「荻大」=荻窪大学の面々──をいたく刺戟したらしく、我々のサイト「荻大ノート」に掲載されるや、彼らからの書き込みが相次いだ(
→第1回サマークリスマス)。大震災の直前、今から三年半ほど前のことである。
あの嵐の日のイヴェントは参集した誰にとっても特別な出来事だったに違いなく、記憶の粗密はあるものの、皆の心の奥深くに刻み込まれていたとおぼしい。小生が疾うに忘れていた当日のディテールが次々に回想され、遠く過ぎ去った「あの日」の細部が次第に霧が晴れるように明らかになっていったのである。
曰く「
私はグランドピアノの下(!)に座っていた」。曰く「
私は最前列中央に座っていたと思う。ユーミンやセリのスラリとした立ち姿を下から見上げた記憶がある」。曰く「(番組存続を求める)
パ聴連の署名活動をこの日もやった」などなど。
なかでも当時の林パックのカセット音源を大切にしているウィーンのBoeからは、8月30日の「林パック」最終回で次のような事の次第が林さん自身の口から語られている事実を教えられた。Boeによる手際のよい要約を引く(少し加筆)。
そもそもセリとユーミンと代々木公園で「何もしない会」をやろうと言ったのがはじめ。放送で雨天決行と言ったもののこの天気なら四、五十人だろうと思っていた。ところが一時二十分の段階で四百人集まっているとスタッフから聞いて驚いた。ユーミンも今頃何かのデモか別の集会でもあるのかと思ったそうだ。
ゲストは全滅だと思ったがユーミンは既に来ていた。セリと梨絵さんはそれぞれ既に自宅を出ていた。
TBS第一スタジオに移動したものの入りきらず冷房も効かない状態。
とにかくスタジオを使わせてもらってそこで二時間ほど遊んだ。手つなぎ鬼はしなかったが、ムカデ競走などをやり、負けた組が「カステラ一番」とか「カエルの歌」などを歌った。
ユーミンが弾き語りで「ベルベット・イースター」を歌い、セリが演奏無しで「八月の濡れた砂」を歌った。
バースデーケーキを買うために司会者が帽子をまわして十円カンパを頼むと、四千四百三十六円(か四千四百六十三円)集まった。それでケーキを買って蠟燭を立てた。大きい蠟燭三本と小さい蠟燭一本(=三十一歳)をふっと吹き消すと、紙吹雪が舞って、生まれて初めての胴上げに。やる方も初めての胴上げだったので崩れて落ちてしまった。(その部分のエアチェック音源が今はネット上で聴ける。
→ここ)
なるほど、これで当日の様子はあらかた判明した。更に驚かされたのは「サマークリスマス」なる命名の由来についての新情報だった。1974年8月末で打ち切りが決まった「林パック」では、この月に入るともう遣りたい放題、怖いものなし、林さんの独断と偏見というか、趣味丸出しの番組が連打された。
8月9日/野坂昭如特集
8月16日/セリとユーミンの特集(石川セリ・荒井由実を招いて)
8月23日/歌う銀幕スター特集(中川梨絵を招いて)
8月30日/最終回
カセット音源をBoeが精査したところ、以下のような顛末が明らかになった。
■ 8月16日の放送で、林さんが(自分の誕生日の)8月25日にセリとユーミンと一緒に代々木公園で遊ぼうと呼びかけ。仮称「石川セリと荒井由実と林美雄を囲んで何もしない会」。
■ 8月23日の放送で、大田区在住の阿北省奈(「苦労多かるローカルニュース」常連投稿者)の葉書が読まれ、その文中で8月25日が「サマークリスマス」と命名された。中川梨絵も当日の参加を約束。
すなわち、ほんの思いつきから生まれた「林美雄の誕生会」の企ては、8月23日に「サマークリスマス」として「提唱」され、僅か二日後の25日に慌ただしく「実施」されたのである。瓢箪から駒とはこのことだ。
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四十年前のとるに足らぬ些事に拘るのには相応の理由がある。
昨夏から月刊誌『小説すばる』誌上でノンフィクション・ライター柳澤健さんの連載「
1974年のサマークリスマス──
林美雄とパックインミュージックの時代」が始まり、半ば忘れられていた林さんの仕事に新たな光が投げかけられつつあるからだ。昨年末にはTBSラジオで特番が組まれ、つい最近もNHK教育TVの帯番組で「林パック」の功績が話題になったりと、どういう成り行きからか、我々が当時その渦中にいた1970年代カルチャーが俄かに脚光を浴びている。
柳澤さんの連載の「第二回」(『小説すばる』2013年9月号)では、標題にもなった「1974年のサマークリスマス」当日の模様が詳しく再現され、我々の拙い回想はその記述の骨子として用いられた。この連載は林美雄の評伝というばかりでなく、1970年代の深夜ラジオ文化そのものを今に伝える貴重な企てである。
ご当人の林美雄すでに亡く、TBSにはなんの資料も残されていないのだから、聴取者だった我々の乏しい記憶や証言が重きをなすのは致し方ないが、それにしても責任は重大である。綿密な取材を心がける著者に対して、間違った情報を提供しては相済まない──そう思うと身が竦み、わが記憶の不確かさを呪いたくなる。
さて今年に入って埼玉の実家の大掃除をした。無住のまま永らく放置してあったが、いよいよ売却を決断したのである。小生はこの家で1971年から75年の途中まで暮らしただけだから、さして思い入れがある訳ではないが、かといって一切合財を放擲してしまうのは躊躇われた。1月から3月まで何度か足を運んで、荒れ放題の室内で大昔の品々と格闘を余儀なくされた。
その折に、ちょっと思いもよらぬ発見があった。見つかったのはレポート用紙ペラ一枚──それでも値千金なのだ。事の顛末はこの4月にサイト「荻大ノート」に報告した。その全文を改めて再録しておこう。
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過日もう誰も住まなくなった埼玉の実家の片づけをした。
1975年に家出同然の有様で上京したから、そのとき自室に残した雑多な私物がいろいろ手つかずで残されていて、タイムカプセルを開けたときのような不思議な感慨に捉われた。デビュー間もないユーミンのコンサートのポスターやもろもろの印刷物、75年1月19日の「歌う銀幕スター夢の狂宴」ポスターが驚くほど綺麗な状態で出てきた。「イエスタデイ・ワンス・モア」とはこのことだ。
なかでも最も驚いたのは、1974年8月25日に催された「第一回サマークリスマス」──柳澤健さんの『小説すばる』連載タイトルを借りるなら「1974年のサマークリスマス」──当日、帰宅後にしたためた日記風メモが出てきたことだ。
当時の小生には日記などつける習慣はなかったはずなのに、この日の体験がよほど特別だったのだろう、催しを終え埼玉の自宅に戻ると(もう深夜になっていた)、興奮が冷めやらぬまま手近なレポート用紙に一部始終を記録したのだと思う。今となっては貴重な、おそらく唯一無二の記録だろうから、以下に全文を書き写しておこう。
なにぶんペラ一枚に鉛筆で書きなぐった断片的な文章なので、そのままでは意味が通じにくい箇所には[ ]囲みで言葉を補った。
74/8/25
■ ひどい雨と風で代々木公園は大荒れ。にもかかわらず、定刻1:30にはざっと三百人かと思われる人の波。林さんは2:00近くに到着(ユーミンはすでに来ていた。うしろから[姿が見えた]のみ)。TBS1スタに会場変更。一同地下鉄で赤坂に。[小生たちは]セリさんを待つべく、原宿[駅前]で2:45頃まで[待機した]。セリさん到着。タクシーに同乗させてもらい、TBSまで[向かう]。
■ [タクシー内でのセリの発言]「林さんのパックが終わって、[ファンのあなたたちも]これからは健康的な生活に戻れるのでは?」「[荒天なので]家を出たり引っ込んだり[していて到着が遅れた]」「[今後は?と質問され]これからはコンサートにも出る予定」。
■ TBSに着いて[局内を](セリさんが先導)あちこち迷ったあげく、林さんに出くわす。林さん「やあ、梨絵、じゃねぇ、セリさん」。1スタに[入ると]熱気むんむん(それまで何も始まっていなかったそうな)。拍手とともにセリ着席。やがてユーミンも着席。
■ それからインタヴュー。
■ セリ──「何から話したらいいのか・・・」「林さんが《八月の濡れた砂》を『いい!』って言ってくれなかったら、私は今、歌っていたかどうか・・・。《八月の濡れた砂》が知られなかったら、歌い続けることはできなかったように思います」
■ ユーミン──「私も何を話したらいいか・・・」「林さんのパックは本当に個性的で」「林さんのパックに[初めて]出させてもらったのは去年の11月」
■ 質問コーナーで、ユーミン「[私の曲は]少女趣味って言われるんです。でも、あれは私が夢見る少女時代、十六歳の頃に書いたもので、あの頃のモニュメント[だと思う]」
■ 林さんから一言、「嬉しいお知らせです。これから冷房が入ります」。まずは「子供の遊び」。ユーミンはしゃぐ。[人垣に遮られてゲームの様子は]よく見えず。
■ 梨絵さん到着! 歌[を]いっぱい[唄う]。ユーミン笑いこける(笑顔のステキな人)。
■ 「ハッピー・バースデイ」[を全員で斉唱]。ピアノ=ユーミン。そしてケーキ、ローソク。
■ 続いてセリの歌──《八月の濡れた砂》(無伴奏)
■ ユーミンの歌──《ベルベット・イースター》
■ そして、林さんの歌──《愛情砂漠》《黒の舟歌》《やさしいにっぽん人》。大声。
■ おひらき(5:50)。[パ聴連の]署名いそがし。ユーミンにも署名してもらう。快くしてくれた。そして梨絵さんにも。
■ TBS出入口。梨絵さん出てくる。ユーミン出てくる。「31日[のジァン・ジァンでのコンサート]がんばってね」[と声をかけた]。林さん出てくる。
■ [その後われわれは移動して]喫茶店(アマンド)→渋谷(ラーメン)→住民ひろば 8:00
■ [住民ひろばで]やがて林さんを囲んで酒話会。林さんにホレてしまう。人間的にすばらしい。話はむしろ政治的なこと[が中心になった]。
■ 10:00頃、梨絵さんも[到着、その場に加わる]。
■ 実に楽しく、なんだか夢のような気分で10:50おひらき。
/以上、26日朝2:26記。
いや〜驚いたのなんの。当日の模様はそれなりに憶えているつもりだったのだが、人間の記憶がいかにアテにならぬものか、改めて思い知らされた。
嵐のなか、仲間たちと一緒に代々木公園から赤坂のTBSまで地下鉄で移動した──その記憶が確かに残っているにもかかわらず、実際にはそうではなく、遅刻した石川セリさんの到着を待つべく代々木公園に居残って(もちろん林さんから頼まれたのだろう)、セリをエスコートして原宿から赤坂までタクシーに同乗したなんて・・・。この件りは完全に記憶から抜け落ちてしまっていた。
TBSのスタジオでの模様は大筋で記憶どおりで、以前この欄で「第一回サマークリスマス」の記事に書いた内容に大きな事実誤認はなかったようだが、当日の二人のゲストが歌った順番は「セリ→ユーミン」だったらしく、それに続けて林さんまで歌った(しかも三曲も!)ことがわかるし、かなり遅れたものの中川梨絵さんも無事スタジオに到着し、催しに加わった事実も判明した。この日、「林パック」三人のマドンナが一堂に会したのである。
ずっと不明瞭だった「パ聴連」による署名活動(林パックの終了に対しTBSに抗議する)も、催しの直後にしっかり行われ、ユーミンらゲストたちからも署名してもらった事実がはっきり記されていた。
終了後に赤坂から渋谷に移動し、公園通りの「住民ひろば」で林さんを囲んで「打ち上げ」の会があったことも、完全に失念していた。ことほど左様に、人間の記憶とは所詮アヤフヤな、粗密の甚だしい「まだら模様」に過ぎないものだと、とつくづく悟らされた。
以上、前稿「第一回サマークリスマス」記事の補遺として筆を執りました。
(初出/「荻大サイト」2014年4月21日投稿)