鬱陶しい季節だからなのか、長大な器楽曲や管弦楽曲には食指が伸びず、心に沁みる声楽曲ばかり聴きたくなる。専ら永く手許にある愛聴盤ばかり取っ替え引っ替えターンテーブルに乗せているが、たまには新着アルバムも試してみよう。といっても出てからもう二年になる旧譜なのだが。
"Sasha Cooke: If You Love for Beauty"
ジョン・アダムズ:
私はあなたの灯のなかにいる? ~《原爆博士》
ショーソン:
愛と海の詩
ヘンデル:
私はまだ生きているか?・・・不実な女よ、戯れるがいい ~《アリオダンテ》
懐かしい木蔭 ~《セルセ》
マーラー:
リュッケルトによる五つの歌
■ 私は仄かな香りを嗅いだ
■ 美しさゆえに愛するのなら
■ 私の歌を覗き見しないで
■ 私はこの世から消え去った
■ 真夜中に
メゾソプラノ/サーシャ・クック
イェフダ・ジラッド指揮
コルバーン管弦楽団2012年2月5~7日、コルバーン音楽学校ジッパー・ホール
Yarlung Records 14148 (2012)
→アルバム・カヴァー米国の新進メゾソプラノ歌手
サーシャ・クックの名はつい最近になって知った。
第二次大戦中マンハッタン計画を主導した物理学者ロバート・オッペンハイマーを主人公に、原爆開発にまつわる複雑な人間模様を描いたジョン・アダムズの歌劇《
原爆博士 Doctor Atomic》(2005初演)が2008年メトロポリタン歌劇場で初上演された際、主役の妻キティに扮して評判になった。
彼女が就寝前に夫の傍らで歌う静謐で瞑想的なアリア「私はあなたの灯のなかにいる? Am I in Your Light?" は、この深刻峻厳な主題を扱ったポレミックでコントロヴァーシャルな問題作のなかで、一服の清涼剤として作用したのだろう。彼女の出演した舞台を収めたDVDは2012年度グラミー賞を受賞している。
こうして三十になるかならないかの若さで世界的に脚光を浴びたクック嬢だが、本CDが単独デビュー・アルバムなのだそうだ。冒頭まず彼女の出世作のアリアが名刺代わりに唄われるのは、彼女自身の希望に拠るものという。
続くショーソンも聴きものだ。名高い「
リラの花咲く頃」を後半に含む二部構成の美しい歌曲である。清純なクック嬢の声質はよく映えて、この曲の淡く儚い象徴主義的な味わいを申し分なく醸し出す。フランス語のディクションも申し分ない。久しぶりにショーソンの抒情にうっとり魅了された。この調子だと、ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」なども彼女はきっと見事に歌うだろう。そのあとのヘンデルはいかにも模範的な優等生の歌唱に留まっているところが些か物足りない。
本アルバムの白眉は最後の「リュッケルト歌曲集」だろう。徒らに悲愴ぶらずに淡々と紡がれる歌たちのなんと深く心に染み入ることよ。癖のない伸びやかな発声と、弱音の表現力の豊かさが、マーラーの孤独な魂をさり気なく浮き彫りにする。とりわけ「
私はこの世から消え去った」と「
真夜中に」が秀逸な仕上がり。いずれ彼女はこれらの歌をより深く彫琢するだろうが、この屈託ない素直な歌唱こそ今のクック嬢ならではの持ち味だろう。美しい若やぎゆえに愛すべきアルバム。
珍しいことに共演するのはロサンゼルスにある音楽学校コルバーン・スクールの管弦楽団。つまり学生オーケストラなのだが、技量はそれなりに高く、危なかしい箇所はどこにもない。期待の新星の門出を壽ぐに相応しい仕上がりだ。
(翌日の追記)
その後サーシャ・クックの公式HPを見つけて何気なく開いてみたら吃驚。彼女の来日公演がこの週末あるではないか! サントリーホールでの東京交響楽団の定期演奏会(ジョナサン・ノット指揮)に独唱者として登場し、なんと!ベルリオーズ「夏の夜」を歌うのだという。予定されたジェニファー・ラーモアが来日不能となって急遽その代役として白羽の矢が立ったらしい。これは聴きものかも。