どういう訳か早く目覚めて家人と近所を散歩、今にも雨が降り出しそうな空模様だ。降ってきたらおそらくそのまま梅雨入りだろう。初夏のような蒸し暑さが暫し遠のくのは嬉しいものの、じめじめと長引く雨季もまた鬱陶しい。ヨーロッパで暮らす連中が心底羨ましく思われる時節である。
こういう日こそクルト・ワイルのソング集が聴きたくなる。当てずっぽうに架蔵の一枚をターンテーブルに差し入れる。
"This Time Next Year: Kurt Weill 1900-1950"
クルト・ワイル:
01. 輝ける伯林 (クルト・ワイル詞)
02. 雨が降る (伝ジャン・コクトー詞)
03. 別れの手紙 (エーリヒ・ケストナー詞)
04. あんたを愛してないわ (モーリス・マグル詞)
05. セーヌ哀歌 (モーリス・マグル詞)
06. ユーカリ (ロジェ・フェルネ詞)
07. ナンナの唄 (ベルトルト・ブレヒト詞)
08. 夜勤当番の相棒 (オスカー・ハマースタイン詞)
09. シッケルグルーバー (ハワード・ディーツ詞)
10. 兵士の妻は何を貰った? (ベルトルト・ブレヒト詞)
11. どれくらい永く? (ヴァルター・メーリング詞)
12. 来年の今頃に (マックスウェル・アンダソン詞)
ソプラノ/イツィアル・アルバレス・アラーナ Itziar Álvarez Arana
ピアノ/バルバラ・グラナドス・シモン2000年6、7月、マドリード、マク・マスター
Discos Oblicuos DO 0002 (2000)
→アルバム・カヴァースペインの歌手が唄うクルト・ワイルのソング集。いつどこで見つけたのか、もう思い出せないが、ワイルの音盤と見ればもう闇雲に手にしていた十数年前、おそらく出てすぐ購めたとおぼしい。実に久方ぶりに聴いてみて、何よりも選曲と配列の秀抜さに打たれる。数ある名作を選りすぐって年代順に並べただけ、といえばそのとおりなのだが、粒選りの逸品ぞろいなのに改めて打たれる。ベルリン、パリ、そしてブロードウェイと活躍の場を変えながら、ワイルが常に天才的なソングライターであり続けたことを証拠立てる絶妙なラインナップなのだ。
とりわけ嬉しかったのは、彼がパリに亡命直後に慌ただしく作曲したドイツ語のソングが二曲、「
雨が降る Es regnet」と「
別れの手紙 Der Abschiedsbrief」とが、ふたつながら収録されていることだ。
ここで煩を厭わずに当時のクルト・ワイルの行動を時系列で書き抜いてみると、
1933年
年明け/ロッテ・レーニャ、クルト・ワイルとの離婚手続きを開始。
1月/交響曲第二番の第一楽章を作曲。
2月18日/ゲオルク・カイザー台本によるオペラ《銀の湖》、ライプツィヒ旧劇場で初演。指揮=グスタフ・ブレッヒャー、演出=デトレフ・ジールク。エルフルトとマクデブルクでも同日初演。
2月22日/ナチス党員、マクデブルクの《銀の湖》第二夜の会場で示威行動。ワイルは反ユダヤ攻撃の標的に。トビス社の映画企画から辞退を余儀なくされる。
3月4日/《銀の湖》千穐楽(以後ドイツ国内でのワイル作品の演奏は1945年まで途絶)。3月上旬、レーニャとルイーゼ・ハルトゥング、ヴィスマンシュトラーセのワイル邸の家財を荷造りし、ワイルを車に乗せてミュンヘンへ移動。ここでおそらく3月5日の総選挙の結果を待ったのち、レーニャはウィーンへ、ワイルはベルリンへそれぞれ帰還。ベルリン滞在中、ワイルはシャルロッテンブルクのホテルに逗留、やがてカスパール・ネーアー邸に身を潜める。
3月21日/ナチス政権が樹立。ワイルはカスパール&エリカ・ネーアー夫妻と共に車で脱出、3月23日パリ着。ひとまずジャコブ・ホテル、スプレンディド・ホテルに逗留、やがてエタ=ジュニ広場11番地のシャルル&マリー=ロール・ド・ノアイユ夫妻の邸宅に移る。
4月3日/ウニフェルザール社、ワイルへの毎月の送金を半額に縮減。
4月4日/芸術後援者エドワード・ジェイムズと契約、彼の主宰になるバレエ団「バレエ1933」のためバレエ作曲を約す。ワイルはジャン・コクトーに「歌唱入りバレエ」の話を持ちかけるが断られ、ジェイムズはブレヒトへの台本依頼を提案、ワイルも諒承。ワイルとコクトーは現代を舞台にファウストのオペラを合作することで合意(実現せず)。
6月/フロリアン・フォン・パゼッティ男爵、ワイルの財産の国外移送を試みる。ヒトラー・ユーゲント、示威行動でワイルの楽譜を焼却処分。
6月7日/ブレヒト詞による《七つの大罪》、シャンゼリゼ劇場で初演。その後ロンドンへも巡演(6月30日~7月15日、サヴォイ劇場)。主演=ロッテ・レーニャ、指揮=モーリス・アブラヴァネル、振付=ジョルジュ・バランシン。ワイル作品の英国での上演は初めて。ワイルはパリ初日の一週間後イタリアへ出発。6月20日、サル・ガヴォーで《小マハゴニー》パリ版と「小三文音楽」の演奏会。
6月13日~8月/イタリア各地で休暇(アラッシオ、ポジターノ、ローマ、フィレンツェ)。《七つの大罪》、ロンドンで《アンナ=アンナ》の題名で初演。
6月18日/マンハイム在住の弟ハンス宛にヴォーカル・スコア刊行譜を送るよう、ウニフェルザール社に依頼。
9月/「雨が降る」(ジャン・コクトーのドイツ語詞)と「別れの手紙」(エーリヒ・ケストナー詞)をパリで作曲。レヴューと録音用にマルレーネ・ディートリヒから依頼されたもの。
9月3日/パリのスプレンディド・ホテルに再び滞在。
9月18日/ロッテ・レーニャとの離婚、ポツダムで成立。
9月下旬/ウニフェルザール社との契約解消を進める。
10月31日/パリのウージェル(Heugel)社と新たに契約、毎月四千フランの前払いを保証される。
11月3日/ロベール・デスノス台本によるラジオ劇《ファントマ哀歌》放送。演出=アレホ・カルペンティエール、監督=アントナン・アルトー。素材はほぼ逸失。
11月19日/ウニフェルザール社との契約終了について合意。その時点までの楽曲の版権は同社が保有することに。
11月23日/パリ郊外ルーヴシエンヌのドルー広場9bis番地の新たなアパルトマンからレーニャ宛てに手紙を書く。
11月26日/パリでモーリス・アブラヴァネル指揮の演奏会。《銀の湖》から三つの歌の演奏中、作曲家フローラン・シュミットの主導する親ヒトラー・反ユダヤ陣営の妨害行動。レーニャ、ベルリンの家を売却し、家具をパリのワイル宛に発送。
12月24日/ローマへ旅する。同地で《小マハゴニー》パリ版と《ヤーザガー》上演(12月29日)に立ち会う。
──クルト・ワイル音楽財団HP年譜よりクルト・ワイルにとって1933年は公私共に激動の一年だった。ヒトラー政権の成立に伴う間一髪のベルリン脱出と、亡命後のパリでの慌ただしい創作活動。その合間を縫うようにロッテ・レーニャとの離婚手続きが進行中である。
禍々しい不吉な時代の幕開けではあったが、ワイルの周辺には常に綺羅星の如き共同制作者が屯し、ドイツからフランスへと拠点を移しながらも、さまざまなプロジェクトが同時進行中だった。因みにドイツ時代における最後の大作であるオペラ《銀の湖》ライプツィヒ初演時の演出家デトレフ・ジーレクとは、後年ハリウッドでメロドラマの巨匠となるダグラス・サークその人である。
パリ移住後ひときわ目を惹くプロジェクトは「バレエ1933」の旗揚げ公演のための新作バレエ《
七つの大罪 Les Sept Péchés capitaux》制作だろう。英国の富豪エドワード・ジェイムズは愛妻ティリー・ロッシュに活躍の場を与えるべく、バレエ・リュスの残党ボリス・コフノ、ジョルジュ・バランシンを誘ってバレエ団を結成、その目玉作品として亡命直後のワイルに新作を委嘱してきた。些か拙速気味ながら、実現のためとあってはワイルもなりふり構わず、離婚直前だった妻レーニャや、袂を分ったはずの共作者ブレヒトをパリに呼び寄せたのである。
もうひとつ注目すべきは、パリの放送局にクルト・ワイル、ロベール・デスノス、アレホ・カルペンティエール、アントナン・アルトーが参集し、一夜のラジオ・ドラマ《
ファントマ哀歌 La Complainte de Fantômas》のため協働した事件だろう。
パリ時代の作品のなかで異色なのは、ドイツ語の歌詞に作曲した「雨が降る」と「別れの手紙」の二曲のカバレット・ソングである。
どちらも当時たまたまパリに滞在中だったマルレーネ・ディートリヒ(すでにハリウッドを拠点としていた)から依頼を受けて作曲したものの、結局ディートリヒの採用するところとならず、そのまま永く忘れ去られていたものだ。ワイル未亡人レーニャの手許にあった草稿から譜面が起こされ、1981年にテリーサ・ストラータスが蘇演・録音して世に出たものだ。
とりわけ興味深いのは作詞者である。なにしろ前者はジャン・コクトー、後者はエーリヒ・ケストナーというのだから凄い。因みにワイル作品のうちで彼らの詞を用いたものは他にひとつも知られていないから、この二曲の存在はひときわ注目に値するものだ。片言程度しか独逸語ができなかったコクトーが「雨が降る」を作詞した経緯については、レーニャ自身が貴重な回想を残している。
クルトと私はある晩コクトーの夜会に招かれた。コクトーは一言二言ドイツ語で話そうとした。クルトはこの挑戦に驚いて、本当にドイツ語がしゃべれるのですか、とコクトーに尋ねた。するとコクトーの答えは──「ええ、名詞のみで!」。そのあと彼は言い訳を口にすると別室に退き、数分後に紙切れを手に戻って来たわ。そこには「雨が降る」の冒頭の数行が書かれていた。クルトはその詞をぜひ仕上げるよう促し、コクトーはどうにか書き終えた。クルトはコクトーの書いた中学生程度のドイツ語を手直しし、それに曲を附けたのです。面白すぎる挿話だが、これに関してはレーニャの証言(上記ストラータスのLPにある)以外には何ひとつ拠り所がなく、事の真偽は本当のところ明らかでない。「伝ジャン・コクトー詞」と称しておくほかあるまい。
Ich frage nichts.
Ich darf nicht fragen,
Denn du hast mir gesagt: "Frage nicht!"
Aber kaum höre ich deinen Wagen.
Denke ich: Sagen, oder nicht sagen?
Er hat alles auf dem Gesicht.
Glaubst du denn daß nur der Mund spricht?
Augen sind wie Fensterglas.
Durch alle Fenster sieht man immer,
Schließt du die Augen ist es schlimmer.
Meine Augen hören etwas,
Etwas anderes meine Ohren.
Für Schmerzen bin ich denn geboren.
Laß mein Gesicht am Fenster, laß;
Die Sonne darf jetzt nicht mehr scheinen!
"Es regnet," sagt das Fensterglas.
Es sagt nur was es denkt!
Laß uns zusammen weinen...
...zusammen weinen...
私は何も訊ねない。
訊ねてはいけないの、
だって貴方から「訊くな!」と云われたから。
でも、貴方の車の音がしたとき・・・
私は思案した。何か言おうか、やめようか、と。
何もかも貴方の顔に書いてあるわ。
しゃべるのは唇だけとお考えでしょう?
でも眼もまた窓ガラスのようなもの。
いつだって窓から見ることができるわ、
でも貴方が眼を閉じてしまったら最悪ね。
私の眼は何かを感じる、
耳から感じるのとは別の何かを。
私は生まれてこのかた苦しんできた。
顔を寄せたまま窓を覗かせて頂戴。
太陽はもう輝かない!
「雨が降っている」と窓ガラスが告げる。
思ったとおりを口にするのだわ!
私たちだけで、一緒に泣きたい・・・
・・・一緒に泣きたいの・・・コクトーの著作権はまだ継続中だが、この詞は正式には彼の作品と認定されていないのだから、お目こぼし願おう。ただし日本語訳は独逸語が「中学生程度」にも及ばぬ小生の試訳なので、箸にも棒にもかからぬ代物である。
マルレーネ・ディートリヒはドイツ時代からワイルのソングを好んでおり、後年「スラバヤ・ジョニー」をレパートリーに加えてもいたのだが、このときワイルが彼女に提供した「雨が降る」と「別れの手紙」をすげなく却下して一度も歌わなかった。その理由は詳らかでないが、研究家デイヴィッド・ドルーによれば、後者は「自分の声質に合わないから」なのだという。
それはそれとして、この二曲の佳作はその後も陽の目をみることなく、1981年まで半世紀近く忘却の淵に沈んだ。それをアルバム「知られざるクルト・ワイル The Unknown Kurt Weill」(
→これ)で蘇らせたテリーサ・ストラータスの功績は称讃に値しよう。ただし、彼女の歌唱は表現過多で余裕に乏しく、小生の好みに全くそぐわない。このスペイン女性アルバレス・アラーナのさり気なく素直な唄いっぷりのほうが遙かに好もしく思う次第だ。