陽射しが強くならないうちにと「バラカン・モーニング」を中座して家人と散策に出るが、まだ十時前だというのに日向を歩くと暑さで目が眩み気が遠くなりそう。慌てて街路樹の蔭に難を逃れて一息つく。今日もきっと真夏日になるだろう。
半時間もしないうちに這う這うの体で自宅に駆け込んで水分を補給。老体に熱中症では命取りになりかねない。そのままフローリングの床に横たわると、体内のスイッチが入って自動的に音楽が流れ出した。ヘンデルの "Ombra mai fù" だ。
[Arioso]
Ombra mai fù
Di vegetabile,
Cara ed amabile,
Soave più.
かゝる木蔭かつて無し
かくも緑に生ひ繁り、
優しくも慕はしく、
いと心地良きは。1738年にロンドンで初演されたヘンデルの歌劇《セルセ Serse》の第一幕、開巻間もなく主人公が歌うアリアである。その旋律は「ヘンデルのラールゴ」の題名で中学の教科書に載っており、歌劇「クセルクセス」より、と小さく添え書きしてあったように憶えている。試みにリコーダー(当時の呼称は「スペリオパイプ」)で吹いてみた記憶も微かにある。間違いなくこれこそ、運動会の表彰式で流れた「見よ、勇者は還りぬ」と並んで、小生が最初に親しんだ「音楽の母」ヘンデルの楽曲に違いなかろう。「水上の音楽」でも「ハレルヤ」でも「調子のよい鍛冶屋」でもなく、ヘンデルといえば「ラールゴ」なのだ。
我々の世代の多くの者にとって、この歌の記憶はニッカ・ウヰスキーのTVコマーシャル映像と分ちがたく結びついている。かく云う小生もまた、このCMで当該曲が「
オンブラ・マイ・フ」と称されるのをしかと肝に銘じた。1986年夏のことである。その「懐かしい」映像をYouTubeで再見してみよう(
→これ)。
確かにこれは途轍もなく素晴らしい映像である。ここは一体どこなのか、眼下に湖を遠望する小高い丘の上で純白の衣裳を纏った褐色の肌の歌手がひとり切々と謳い上げる。調べてみると、このとき撮られたフィルムには「オンブラ・マイ・フ」全曲をノーカットで収録したロング・ヴァージョンも存在するようだ(
→これ)。
それにしてもなんと贅沢なコマーシャルであることか。サウンドトラックを既存の音源に頼らず、わざわざロンドンのアビー・ロード・スタジオで独自に録音し、どこか海外の(英国の湖沼地帯だろうか)人里離れた景勝地まで歌手を連れ出してロケーション撮影を敢行した。その効果たるや実に絶大で、一度でもCMを目にしたら、鮮烈な印象が耳目に焼き付いて四半世紀後も一向に薄れない。
スーパー・ニッカにヘンデルのアリアという意外な取り合わせ。しかも大自然に向かって琥珀色の肌の女性が歌うという設定の妙。その一部始終を横顔のアップから全身が点景となるまで、ワンシーン=ワンカットで捉えた端麗な映像にただ唸るばかりだ。演出にあたったのは
実相寺昭雄。スクリーンの世界では一向に感心しない人だが、このスーパー・ニッカのCM映像は際立った秀作である。
被写体となったソプラノは
キャスリーン・バトル Kathleen Battle である。すでにメトやグラインドボーンの舞台を踏み、ザルツブルク音楽祭にも登場するなど注目株だったとはいえ、まだ声楽通の間でのみ知られる存在だった彼女に、1986年の時点で白羽の矢を立てた実相寺の慧眼は讃えられてよい。事実このCMを契機として日本でのバトル人気はただちに沸騰したし、翌87年の元旦にはカラヤンが指揮するウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートで歌うなど、キャスリーン・バトルはこのあと一気にキャリアの絶頂にまで登りつめることになる。
うろ覚えなので確言はできないのだが、当初このニッカ・ウヰスキーCMには別の黒人歌手(確かジェシー・ノーマンかバーバラ・ヘンドリックスのどちらか)が打診されたのだが、酒類のコマーシャル出演は宗教上の禁忌に触れるという理由から断られ、その代わりとして急遽バトル嬢の登場と相成った・・・のではなかったか(この経緯についてはネット上に情報がなく、あくまでも噂話としておく)。とにかく瓢箪から駒が出る塩梅で、このCMは日本におけるバトルの名声を決定づけ、サウンドトラックを収めたアルバム(
→これ)は二十万枚も売れたのだという。
ところで実相寺が黒人の歌姫の起用を思いついたのは、ひょっとしてジャン=ジャック・ベネックス監督の映画《ディーヴァ(邦題はディーバ)》からではなかろうか。この映画で、主人公の若者は憧れのソプラノ歌手が歌うアリア(カタラーニの歌劇《ラ・ワリー》から「さらば故郷の家よ」)を演奏会場で盗み録りし、その録音テープが思いがけず奇怪な冒険の発端となるのだが、そのディーヴァ役に抜擢されたのが褐色の肌のオペラ歌手
ウィルヘルメニア・ウィギンズ・フェルナンデスだったのである(
→彼女の歌唱場面)。
稀代のオペラ好きだった実相寺監督は必ずやこのフィルムを観ただろうし、当該場面で歌姫が身に着ける白い衣裳は「オンブラ・マイ・フ」を歌うバトル嬢のそれの祖形なのではないか──少なくも小生はそう推測している。因みにこのフェルナンデス嬢は数枚のアルバムを残したきり、その後の消息を聞かない。
それはそれとして、「オンブラ・マイ・フ」を聴くたびに、つくづくヘンデルの旋律家としての偉大さを身に染みて感じる。生活のため厖大な数のオペラ、オラトリオの類を濫作した彼は、いちいち推敲する間もなくアリアやレチタティーヴォを書き飛ばしたに違いなく、この当該アリアについては同僚作曲家からの盗作疑惑すら囁かれるのだが(ボノンチーニの歌劇《セルセ》の同名曲
→これ)、たとえそうした先例を参照したとしても、ヘンデルが仕上げた旋律は遙かに精妙にして高雅、冒しがたい威厳と神々しさすら漂わせる。触る物すべてを黄金に変えたミダス王さながら、ヘンデルのペン先からは純金の旋律がとめどなく流れ出たのである。
ヘンデルの歌劇《セルセ》は初演の評判が芳しくなく、上演は数百年間も途絶えて、名のみ伝わる秘曲同然の扱い。それなのにこのアリア「オンブラ・マイ・フ」だけはオペラの文脈から離れて独り立ちし、男女を問わず多くの歌手に愛唱された(因みに初演時にクセルクセス王を歌ったのはカストラート歌手)。
音盤史を繙けばクララ・バット(1917)、エンリーコ・カルーゾ(1920)を嚆矢として、ティート・スキーパ(1926)、ベニアミーノ・ジーリ(1933)、カスリーン・フェリア(1949)・・・と綺羅星の如き名歌手たちの名唱があまた遺されている。
第二次大戦後のヘンデル・オペラ復興の機運に乗って、ようやく《セルセ》復活上演がぼつぼつ開始され、1965年には記念すべき初の全曲盤がWestminsterレーベルから出た。小生が身近に置いて愉しんだのもその再発LP三枚組だった(
→これ)。ただし、それとて二十年以上も昔のことだ。今たまたま手許にあるのは、古楽器演奏による原典版の、真の意味での史上初録音CDである。
"George Frideric Handel: Serse (Xerxes)"
ヘンデル:
セルセ (クセルクセス)
セルセ/キャロリン・ワトキンソン
アルサメーネ/ポール・エスウッド
アマストレ/オルトルン・ヴェンケル
ロミルダ/バーバラ・ヘンドリックス
アタランタ/アンヌ=マリー・ロッド
アリオダーテ/ウルリック・コルト
エルヴィーロ/ウルリヒ・シュトゥーダー
ジャン=クロード・マルゴワール指揮
ジャン・ブリディエ声楽アンサンブル
ラ・グランド・エキュリエ・エ・ラ・シャンブル・デュ・ロワ1979年3~4月、パリ、ノートル・ダム・ド・リバン教会
Sony SM3K 36 941 (1979/1995)
→アルバム・カヴァー典麗優美な序曲が終わると、レチタティーヴォに導かれて "Ombra mai fu" がいきなり始まってしまう。冒頭すぐなので心の準備が整わないままだ。
主役を務める
キャロリン・ワトキンソンの少しくぐもったアルトが木蔭の安らぎを歌う。しみじみと厳かに心の襞を震わすような、好感のもてる歌唱だ。さあ、これから三時間弱、どこまで集中して聴けるか心許ないが、たまにはバロック・オペラの音の奔流に身を委ねてみよう。初夏のよく晴れた真昼の緑蔭での憩いに。