日頃から好き放題に古今東西の音源をターンテーブルに載せて、なんの苦もなく縦横に時間旅行を果たした気になっている。だが、ひとたび過去の文献の森に足を踏み入れるや、日頃われわれが耳にしている演奏はほんの一握りにすぎず、大半は録音も遺されぬまま忘却の彼方に消え去ってしまった事実に否応なく気づかされる。もはやその幻影すら偲ぶことのできぬ実践のなんと多いことか。
小生の興味の対象であるプロコフィエフもまた例外でなく、彼の同時代人でその音楽の擁護者をもって任じた演奏家の多くが忘却の淵に沈んでしまっている。第二ヴァイオリン協奏曲の初演者である
ロベール・ソエタンス、「三つのオレンジへの恋」のヨーロッパ初演を敢行したハンガリー出身の指揮者
イェネー・センカル、作曲者との共演を通して楽曲を知悉していたベルギーの指揮者
デジレ・ドフォーなど、今では思い出されることも稀な多くの人々の手で同時代の演奏実践がなされていた事実に愕然とさせられる。われわれの知り得た過去は片々たる一部分に過ぎない。葦の髄から天井を覗くの喩えどおりなのだ。
録音が悲しいほど少ない戦前はともかくとして、近年についても事情はさして変わらない。わが国を例にとるなら戦後の
上田仁や
山田一雄(和男/夏精)といった指揮者による旺盛なプロコフィエフ紹介は殆ど記録されていないし、より近くは先年たまたま第六ピアノ・ソナタの実演に震撼させられた
ドミトリー・アレクセーエフ、未知の作品の発掘に努めた英国の指揮者
エドワード・ダウンズ卿など、音盤に刻まれた僅かな記録からではプロコフィエフ演奏における貢献の度合を計り知れない演奏家は枚挙に暇がないのである。
そうした反省を踏まえて、従来プロコフィエフと結びつけて考えられなかった指揮者たちの珍しい録音を心して聴き直すことにする。こうして音源がわれわれの手許に遺された奇蹟的な僥倖を噛みしめながら。
ハイドン:
交響曲 第百一番「時計」*
プロコフィエフ:
交響曲 第五番**
ペドロ・デ・フレイタス・ブランコ指揮
フランス放送国立管弦楽団*
フランス放送フィルハーモニー管弦楽団**1958年(月日未詳)*、1958年3月3日**、パリ(実況録音)
Forgotten Records fr 927 (2014)
→アルバム・カヴァーペドロ・デ・フレイタス・ブランコ Pedro de Freitas Branco(1896~1963)はポルトガルが生んだ世界的な指揮者。ラヴェルの信頼が篤く、1932年1月14日パリのプレイエル楽堂での「ラヴェル音楽祭」に招かれ、作曲家に代わって殆どの曲目を指揮した(当夜ラヴェルはマルグリット・ロンの独奏で世界初演されたピアノ協奏曲の伴奏指揮を振ったのみ)。棒のテクニックにからきし自信のなかったラヴェルは、その四か月後ピアノ協奏曲の初録音に際してもフレイタス・ブランコに代振りさせ、自らは調整室から指示を送るだけだったそうな(この事実は伏せられ、同録音は永く作曲者自作自演と称された)。
フレイタス・ブランコは生涯にわたり同時代音楽の擁護者として鳴らし、生地リスボンに国立交響楽団を創設すると、フランス近代音楽のほか、シュトラウス「ツァラトゥストラかく語りき」、ストラヴィンスキー「春の祭典」、バルトーク「弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽」などのポルトガル初演を果たしたほか、サン・カルロ歌劇場で「ヴォツェック」初演を振って物議を醸しもした由。プロコフィエフとの直接の交友はなかったようだが、1930年代初頭のパリという芸術環境を共有する両者の間には浅からざる因縁があったとも想像されよう。
レコード録音には恵まれなかったフレイタス・ブランコだが、1990年代に母国のレーベルPortugalsomからリスボンの手兵を率いた実況録音CD十二枚組(!)が出て、その晩年の至芸が一挙に知られるに至った(ワーグナー、シュトラウス、ドビュッシー、ルーセル、ラヴェル、ストラヴィンスキー、マルチヌー、ヴォーン・ウィリアムズなど。ただしプロコフィエフは含まれず)。このたびForgotten Recordsが発掘した放送音源はその欠を埋める貴重な企てである。パリの楽団の力量(と覇気)も録音状態も程々だが、フレイタス・ブランコの解釈を知るには充分な演奏内容である。第一楽章に顕著なように、彼のプロコフィエフは重心がやや下にあり、足取りも峻厳で重々しい。構えの大きな堂々たる交響曲として捉える正統派だ。両大戦間の美学からは遠く離れ、むしろチャイコフスキーの衣鉢を継ぐ音楽なのだと言いたげである。終楽章も徒らに疾走せず、念を押すように克明なアクセントで細部を隈取る。他の誰とも違った個性的なフィナーレだ。
プロコフィエフ:
組曲「キジェー中尉」
交響曲 第五番
ヴァーノン・ハンドリー指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団1987年5月18、19日、キルバーン、セント・オーガスティン教会
EMI Eminence 5 66116 2 (1996)
→アルバム・カヴァーエルガー、ディーリアス、VW、バックスなど英国音楽のスペシャリストとしての令名の高さが災いして、
ヴァーノン・ハンドリー Vernon Handley(1930~2008)の他の分野における仕事は殆ど顧みられていないのではないか。
本盤にしても小生はその存在すら知らなかった。ネットCDショップ「湧々堂」店主が「殿堂入り」の一枚として推奨するのを読んで「これは聴かねば」と思ったのだ。曰く「キジェー中尉」は「
全曲を通じて、内声の動きが実に自然な形で沸きあがって、新たな発見に出会える瞬間も少なくありません」、第五交響曲については、「真面目一徹でありながら、作品の素晴らしさを聴き手に痛感させるハンドレーの手腕は、交響曲でも同様に威力を発揮。第1楽章最初のフルートと低弦の美しいコントラストと柔らかな詩情の滲み出しからして、純音楽的味わいの極み! リズムが鋭利に立つことはありませんが、それがもどかしいどころか、音楽に深みを与えていることに気付かされます。ところが、コーダでは、壮麗な色彩が飽和寸前まで膨れ上がるのには驚愕!」。こうまで大絶賛されては無視できなかろう。
一聴して驚いた。店主の紹介どおり凄い演奏なのだ。剽軽と生真面目のブレンド具合が絶妙な「キジェー中尉」もさることながら、第五交響曲における深遠かつ壮大な造型といったら! まさしく「純音楽的味わいの極み」である。プロコフィエフが思い描く音楽がいかなる潤色もなく無垢の姿で現れ出たといおうか。ハンドリーの読譜能力の底知れぬ深さに舌を巻くばかりだ。彼は途轍もなく有能な指揮者だったに違いない。当初から英国内向けの廉価盤として出たため、まともに評される機会に恵まれなかった演奏だが、声を大にして喧伝さるべき名盤である。ロイヤル・フィル(アンドレ・プレヴィン常任時代である)のアンサンブルの緊密さにも目を瞠るし、バランスの良い録音も称賛に値しよう。
プロコフィエフの第五交響曲のCDが何十種出ているか知らないが、間違いなく五本の指、ひょっとすると三本の指に入るかも知れない、決定的な名演である。
グリンカ:
円舞幻想曲*
リムスキー=コルサコフ:
「五月の夜」序曲*
組曲「金鶏」**
プロコフィエフ:
組曲「夏の夜」**
グラズノーフ:
演奏会用円舞曲 第一番***
パーヴォ・ベリルンド指揮
ボーンマス交響楽団1975年1月5~6日**、11月24日*、1977年6月20日***、
サウサンプトン、ギルドホール
Warner Classics [EMI] - Icon 0 19255 2 (2013, from 13CDs set)
→アルバム・カヴァー →オリジナルLPカヴァー嘘のような安価で手に入る箱入り十三枚組セット。二年前に惜しくも物故したフィンランドの名匠
パーヴォ・ベリルンド(ベルグルンド) Paavo Berglund(1929~2012)も誤解されがちな存在である。シベリウス交響曲全集が余りに高評価だったため、専ら北欧音楽のスペシャリストと看做されがちなのだ。彼は同時に優れたショスタコーヴィチの解釈者でもあり、本ボックスにも第五・六・七・十・十一交響曲の名演が収められている。スメタナの「わが祖国」全曲も、フランクの交響曲も、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲(第四と第六)も、それぞれ掬すべき秀演である。このようにベリルンドは広大なレパートリーを手にしたヴァーサタイルな指揮者であり、小生のたった一度の実演体験(ペテルブルグで同地のフィルハーモニーの定期演奏会を振った)で聴いたメンデルスゾーンとシューベルトもまた肺腑を抉るような忘れがたい演奏だった。
迂闊な小生はベリルンドがプロコフィエフにも名演を残した事実をすっかり忘れていた。それも人口に膾炙した交響曲やバレエ組曲ではなしに、オペラ「修道院での結婚(デュエンナ)」から編まれた演奏会用組曲「夏の夜 Летняя ночь」である。この録音が行われた1975年の時点で、西側の聴衆でこのオペラに親炙した者は殆どいなかった筈で、組曲そのものも(西側では)初録音だったに違いない。
初出LPでR=コルサコフの「金鶏」組曲のフィルアップに「夏の夜」をあてがった知恵者はいったい誰なのだろう。小生はほかでもない指揮者ご当人の発案だと睨んでいる。それを証拠立てるのは何よりもまず演奏そのものの周到な仕上がりだ。円熟の極みにあったプロコフィエフの光彩陸離たるオーケストレーションの妙を、ベリルンドと当時の手兵たるボーンマス響は余すところなく描き出す。推察するに指揮者はオペラそのものも熟知していたのだろう、弾むように快活な祝祭的な気分とたゆたうような夜の雰囲気との交錯が実に巧みである。
ベリルンドの永い音盤歴のなかで、プロコフィエフの録音はこれ一曲しかないというのが如何にも残念だ。作曲家の歿後五十年祭に先駆けて2002年ロンドンで彼がBBC響を振った第二交響曲は素晴らしかったそうだ。今後そうした実況録音が発掘されるのを心待ちにしている。