放送音源の違法なコピー、と云ってしまうと身も蓋もないが、権利関係を無視して勝手にCD-R化した商品をここで紹介するのはやはり少々気がひける。本来ならば然るべきレコード会社が正規に発売すべきところだが、今や大手レーベルはどこも青息吐息だから、その隙間を縫うように海賊盤が世に蔓延る。だからこれらは正規盤の代替品と云えなくもない。必要悪の一種というわけだ。
そんな戸惑いを覚えつつターンテーブルにディスクを忍び込ませる。
"André Previn: Czech Philharmonic Orchestra"
プレヴィン:
ダイヴァージョンズ
コープランド:
クラリネット協奏曲*
ドヴォジャーク:
交響曲 第七番
クラリネット/トマス・マーティン*
アンドレ・プレヴィン指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団2010年6月3日、プラハ、スメタナ楽堂(「プラハの春」音楽祭実況)
Dirigent DIR 0685 (2010, CD-R)
この演奏には聴き憶えがある。というか、これは三年前にオランダの放送をウェブ経由で聴いて感動した実況録音と寸分違わない(つまりそのエア・チェック)。だからその折にしたためた拙文をそっくり再録しておこう。
昔からチェコ・フィルハーモニー管弦楽団は客演指揮者とやけに相性がいい。それだけ柔軟性に富んだオーケストラということか。エヴゲニー・ムラヴィンスキーが国外で唯一この楽団と共演しているほか、ロジェ・デゾルミエール、シャルル・ミュンシュ、ジャン・フルネ、セルジュ・ボドといった歴代のフランス人シェフを指揮台に迎えては優れた録音を残している。パウル・クレツキ唯一のベートーヴェン交響曲全集はこの楽団との成果だったし、カルロ・ゼッキとの味わい深い「幻想交響曲」、最晩年のレオポルド・ストコフスキの客演やザルツブルクでのジョージ・セルとの共演もよく知られていよう。
その伝統は今もって健在であるらしい。アンドレ・プレヴィンとの共演、と聞いて些か意外な気がしたのだが(ひょっとして初顔合わせか?)、隅々まで生命の息づいた音楽が流れ出してきて、両者の相性が抜群にいいことを窺わせる。
八十翁のプレヴィンは今や入念なリハーサル抜きで楽団員の自発性に委ねる流儀なので、どこかの国の「N」で始まる楽団の場合だと、なんだか気の抜けたサイダーのような演奏に堕してしまいがちだが、流石に音楽都市プラハの腕利きたちは違う、指揮者の思い描くとおり人間味に溢れた瑞々しい音楽を紡ぎ出す。さだめしプレヴィンもご満悦だったろう。客演指揮はこうぢゃなくちゃね!
「ダイヴァージョンズ Diversions」とは「方向転換」「迂回」もしくは「気晴らし」の意。プレヴィンがウィーン・フィルの委嘱で1999年に作曲、翌年に初演した。四楽章からなる、云ってみれば彼なりの小規模な「管弦楽のための協奏曲」ともいえるか。聴きやすい音楽ながら随所に密やかな瞑想や悲愁が漂い、ブリテンとショスタコーヴィチとの類縁を明かす。この演奏がチェコ初演だというが、十二分に手の内に入った好演。木管独奏の巧さが光る。
続くコ-プランドのクラリネット協奏曲はひどく懐かしい。あれは1969年か70年か、NHK・FMで作曲者自らがベルリン・フィルを指揮した実況が放送されたのをエア・チェックして繰り返し聴いたものだ。独奏はなんとカール・ライスター(!)。渋い音色ながら絶妙な演奏と記憶する。それから四十数年を経て再会。
しみじみ心に響く独奏に導かれ、弦楽合奏が静かに寄り添う。そうなのだ、これはコ-プランド屈指の名曲なのである。ゆるやかな第一楽章のあとは独奏カデンツァを経て快活な終楽章、という小ぢんまりした構成。ボストン交響楽団の首席奏者トマス・マーティンは安定した技量の持ち主、この終楽章がまことに巧みである。プレヴィンの伴奏もノンシャランな雰囲気が素晴らしい。チェコ・フィルも機敏に反応。独奏とオーケストラが揃って見栄を切るような終結部もピタリ決まった。
そして最大の聴きものであるドヴォジャーク。プレヴィンによる第七交響曲はたしかロス・フィルとの録音があった筈だが小生は未聴。だが悪かろう訳がないのである。師匠であるピエール・モントゥーを凌ぐ名演を期待しつつ聴き始めると、これが予想を更に上回る出来映えなのだ。燻し銀の美しさ。お国ものドヴォジャークとあってチェコ・フィルは水を得た魚さながら。プレヴィンはその旺盛な自発性に委ねながら、緩急自在に音楽を導く。呼吸するように自然なドヴォジャーク。ここまで味わい深い演奏にはそうそう出逢う機会がなかろう。
しばしば退屈になりがちな第二楽章も抜かりない。手綱を引いたり緩めたり、適度な揺らしと緊張感を与えて飽きさせない。これがプレヴィンの流儀なのだ。管楽器のちょっとした受け渡しにも心が籠もっており、弦楽の表情の典雅さも特筆もの。ドヴォジャークがどういう響きを念頭に作曲したか判る気がした。
三楽章はもう魔法さながら。フリアント(田舎のワルツ)の表情が生きている。人肌の温もりを感じさせる演奏だ。実はドヴォジャークの書法はブラームスに比してかなり緩く杜撰、主題の出し入れなど構成的に難があるのだが、プレヴィンは繋ぎの経過部を実に巧みに処理するものだから、片時も緊張感が途切れない。それにしてもチェコ・フィルの弦楽合奏の優秀なことよ。
終楽章はドラマティコにしてエネルジコ。雄弁に盛り上げる弦もさることながら、ティンパニとホルンがここぞと実力を発揮する。ここでもプレヴィンの指揮は微に入り細を穿ってまことに丹念。テンポを微妙に揺らし、音量の絞り加減も絶妙そのもの。無意味な音がひとつもない。なんという格調の高さだろう。幸せな音楽とはこのことだ。最後にブラーヴォがかからないのが不思議。全然わかってないなぁ、プラハの聴衆たち。
つまり、そういうことだ。聴き直しての感想は全く変わらない。いつの日か正規盤でこの演奏が聴けることを願わずにはいられない。