テレヴィジョンの畫面はソチ五輪の開會式、窓の外は降りしきる雪。一面の銀世界だ。かういふ日は外出も儘ならず、部屋を暖かくして露西亞音樂をば愉しむに如くはなからう。折角だから滅多に耳にする機會の無い極め附きの名演奏で。
"Prokofiev - Tchaikovsky - Mravinsky"
プロコフィエフ:
バレエ組曲「ロミオとジュリエット Ромео и Джульетта」*
■ 第一曲/モンタギュー家とキャピュレット家
■ 第二曲/少女ジュリエット
■ 第三曲/修道僧ロレンツォ
■ 第五曲/別離を前にしたロミオとジュリエット
■ 第六曲/アンティルの娘達の踊り
■ 第七曲/ジュリエットの墓前のロミオ
チャイコフスキー:
バレエ「胡桃割り人形 Щелкунчик」抜粹**
■ 第六曲/情景(來客達の辭去~夜) ~第一幕 第一塲
■ 第七曲/情景(戰闘) ~第一幕 第一塲
■ 第八曲/情景(冬の樅の木) ~第二幕 第二塲
■ 第九曲/雪片の圓舞曲 ~第二幕 第二塲
■ 第十四曲/パ・ド・ドゥー(金平糖の精と王子のアダージュ) ~第三幕 第三塲
■ 第十五曲/終幕の圓舞曲と大團圓 ~第三幕 第三塲
エヴゲニー・ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィルハーモニー管絃樂團1981年12月30日*、31日**、レニングラード、フィルハーモニー大樂堂(實況)
Philips 420 483-2 (1990)
→アルバム・カヴァームラヴィンスキーのディスクは餘程の理由が無い限りは聽かうと思はない。實演の印象との乖離が餘りにも大きくて落膽するのが嫌なのだ。
あの肺腑を抉るやうなスフォルツァンドも、絹糸のやうに細く張り詰めたピアニッシモも、録音の限界を遙かに超へてゐる。最も恐れるのは録音の聽取に據つて肝腎の生演奏が上書きされ、往時の記憶が薄らいで仕舞ふ危險性だらう。貴重な體驗を出來るだけ劣化させず保持してゐたい。せめて惚けが來る迄は胸の奥底にそつと仕舞ひ込んで置きたいのである。
さういふ次第で、久し振りに取り出した本盤は數あるムラヴィンスキーの實況録音のうちで極く例外的な存在である。此の一枚だけは不思議にも生演奏の記憶とさほど隔たりを覺えず、心安んじて聽いてゐられるのだ。實演はそれぞれ1973年5月28日、1977年10月12日に東京文化會館で耳にし、其の折の強烈深甚な印象は今も生々しく腦裏に刻まれてゐるが、此等二曲に關する限り、細部に至る迄「ほゞ此れと瓜二つの演奏だつた」とはつきり斷じ得る氣がする。録音條件が良いからか、あるひは曲の性質がさう思はせるのか、其の邊りは良く判らない。
ムラヴィンスキーの指揮する曲目は極めて限定的だつた。プロコフィエフならば此の「ロミオとジュリエット」第二組曲および第六交響曲の二作品のみ。最も名高い第五交響曲は暫く振つた後でレパートリーから外された。チャイコフスキーも同樣に、專ら後半の三大交響曲(特に第五と「悲愴」)と「フランチェスカ・ダ・リーミニ」、そしてバレエ「胡桃割り人形」と「眠りの森の美女」の抜粹にほゞ固定されてゐた。自分の裡で納得の行く解釋が固まつた極く少數の樂曲を繰り返し演奏會にかけ、氣の遠くなるやうな時間をかけてリハーサルを重ね、如何なる細部をも疎かにせず彫琢していく。其れがムラヴィンスキーの昔からの流儀だつた。
しかも半世紀の長きに渉りレニングラード・フィルに君臨し、世界屈指の樂團に鍛へ上げる一方で、恰も學生オーケストラに對するが如く手取り足取り嚴格に指導した。彼とその手兵との關係が、舞臺上の彼等を觀察するだけで、そして演奏を聽けば尚更だが、まさしく一心同體なのは誰の眼にも明らかだつた。
バレエ音樂に對するムラヴィンスキーの竝々ならぬ愛着には、彼がマリインスキー劇塲バレエ團(當時「國立アカデミー・バレエ劇塲」、やがてキーロフ・バレエ)專属指揮者としてデビュー(演目は「眠りの森の美女」)を果たし、「胡桃割り人形」で絶賛を博したといふ經歴が大きく影響してゐるだらう。
但し彼は1938年レニングラード・フィルの常任指揮者に晴れて抜擢されたから、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」舞臺上演(1940年ソ聯初演)を指揮した經驗は一度も無い。察するに彼が當バレエ、それも「第二組曲」にのみ格段の執着を示した理由は、此の組曲が作曲者自身の指揮で、ほかならぬレニングラード・フィルに據り世界初演(1937年4月15日)された歴史的事實と無關係ではあるまい。恐らくムラヴィンスキーはプロコフィエフの傍らで彼の解釋をつぶさに硏究したのではないか。此の時點では無論バレエ自體は上演に到つてゐない。
「組曲」第一曲「モンタギュー家とキャピュレット家」の劈頭が凄まじい。強弱の對比の激越さに息を呑み、主部の有無を言はせぬ假借なき展開に、悲劇の核心へといきなり否應なく拉し去られる思ひがした。其の凄い意志の力に金縛りに遭つてしまふ。次の「少女ジュリエット」では一轉して清冽なリリシズムと微笑むやうに柔和な情趣で心和ませる。ほんの僅かテムポを落としタメを作つて、得も言はれぬニュアンスを釀す邊りも、其のまゝ實演時の遣り方である。白眉は矢張り「別離を前にした・・・」での抑制された、其れでゐて切々と胸に迫る歌心だらうか。
當組曲に藏された複雜で奥の深い味わひを、かくも微に入り細を穿つやうに抉り出す演奏を他に知らない。プロコフィエフの音樂への全き歸依と信頼とが其處にある。因みに七曲から成る組曲の「第四曲(踊り)」を省くのが、ムラヴィンスキーのいつもの流儀だつた(尠くも1960年代後半からは)。
「胡桃割り人形」も劣らず凄絶な演奏である。此處にお子樣向けの愉しいお伽噺を求めてはならない。ムラヴィンスキーが此のバレエ音樂に見出したのは「第五」或ひは「悲愴」交響曲に勝るとも劣らぬ深刻にして激烈なドラマなのだ。
元のバレエの展開に沿つて降誕祭前夜のパーティの餘韻から仄暗い夜の描寫へと進んだ音樂は、俄かに
莊重な調子を帯びて高潮し(此處が壯絶無比の盛り上がりだ)、やがて鼠の大群と玩具の兵隊達との戰闘塲面へと至る。主人公の少女の加勢を得て玩具の軍團が辛うじて勝利すると胡桃割り人形は王子へと姿を變へ、少女と共に別天地へと旅立つ塲面となる(トランペットが喨々と響くクライマックス)。そして夢幻的な「雪片の圓舞曲」が雰囲氣たつぷりにホフマン的な神秘の世界を現出させる(原曲の兒童合唱は省かれる)。
此の後バレエでは「お菓子の國」を舞臺に西班牙・亞剌比亞・支那など異國情緒を釀すディヴェルティスマン──組曲版で誰もが親炙する──が展開されるのだが、ムラヴィンスキーは此の一連の樂曲に一顧も與へず容赦なく割愛(有名な「花の圓舞曲」も)、一氣に終盤「パ・ド・ドゥー」のアダージュへと突入する。
随分と捻くれた處置のやうだが、此處にこそムラヴィンスキーの眞骨頂が見られよう。此のアダージュに於けるチャイコフスキー特有の長く深々とした息遣ひ、至純な氣高きものへの飽くなき憧れ、取るに足らぬ旋律主題(なにしろ「ドシラソファミレド」なのだ!)を崇高なクライマックスへと導く天才的手腕──ムラヴィンスキーの魔法のやうな棒は其等を餘す處なく證據だてる。此れは斷じてお子樣向けではない、大人の玩味に耐へ得る音樂なのだよ、と彼は聲高く訴へてゐるのだ。
凄い、餘りにも凄過ぎる。だが半面で其れは罪作りな演奏でもある。他の指揮者の解釋がおしなべて凡庸に思へて仕舞ふからだ。ムラヴィンスキーの秘術の
效き目は斯くも絶大で一生涯ずつと消えずに續くだらう。
斯かる演奏を普段から當たり前のやうに耳にしてゐたレニングラード市民の幸福に嫉妬せずにはゐられない。あの白い列柱が竝ぶ優美なフィルハーモニー樂堂(舊・貴族會館)は此の晩もさぞかし超満員だつたらう。師走も押し詰まつた頃だ、演奏會が終はつて表に出たら藝術廣塲は一面の銀世界だつたのではないか。