レオシュ・ヤナーチェクはなかなかに手強い作曲家である。凡百の民族主義とは一線を劃した独自の作風と、奇矯なところのある屈曲した旋律線と和声。際立って個性的なぶん、とっつきにくい性格を顕わにした音楽なのだ。
初めて「おゝ、これなのか!」とヤナーチェクの音楽の比類ない個性に感じ入ったのは
ロヴロ・フォン・マタチッチがN響を振って「シンフォニエッタ」を指揮する雄々しい姿をTVで瞥見したときだったと思う。調べてみると1973年のことらしい。最近になって判ったのだが、マタチッチはヤナーチェクの熱烈な讃仰者だったそうで、1922年というごく早い時期にスロヴェニアのリュブリャーナで歌劇「イェヌーファ」を初上演した由。間違いなく生前の作曲家とも交渉をもったことだろう。
そうと知らぬ間に由緒正しい直伝のヤナーチェク演奏と出逢えたのは僥倖だったが、残念ながら後が続かなかった。FMラヂオから流れてきた「消えた男の日記」も「グラゴル・ミサ」も、弦楽四重奏曲「内緒の手紙」「クロイツェル・ソナタ」も聴くには聴いたものの、独創的すぎる構想に違和感を覚え、癖のある響きに撥ねつけられた。若い未熟な耳にはヤナーチェクの音楽は容易に理解できなかった。強い酒のようなもので、その芳醇な魅力を存分に味わう能力が備わっていなかったのだ(今だって自信はないが)。そのあと十五年ほどクラシカル音楽から遠ざかっていたから、ヤナーチェクとも無縁の日々が続く。情けないが事実だから仕方がない。
突破口というと大袈裟だが、ヤナーチェクに接近する道筋が不意に開けたのは思いがけない契機からだ。あれは1980年代末頃だろうか、シネヴィヴァン六本木で
クエイ兄弟の短篇フィルムを続けざまに観たとき、《レオシュ・ヤナーチェク》と題された不思議な人形アニメと出逢った。
冒頭いきなり「シンフォニエッタ」が厳かに鳴り響く。市電のパンタグラフが大写しになり、それがどこかの市街を横移動していく。作曲家の暮らすブルノの街なのだろうか。とあるアパルトマンの窓に老ヤナーチェクの顔がちらと覗いたと思うと、彼の声が静かに生涯を回顧し始める・・・というような始まりだったと思う。朧ろげな記憶では頼りないのでYouTubeに援けを求めたら、嬉しいことに全篇が掲げられているではないか(
→前半部分 →後半部分)。
二十数年ぶりに今しがた再見してみると、やはりこれは比類ない映画である。三十分にも満たぬ時間のなかに作曲家の天衣無縫な存在が凝縮され、不思議な人形たちがその生涯と作品(「消えた男の日記」「ブロウチェク氏の旅行」「利口な女狐の物語」・・・)を見事な手法で紹介していく。これを観たらもう、ヤナーチェクを聴かない訳にいかなくなる。小生にとって大きな天啓ともいうべき出来事だった。
こうしてヤナーチェクと再会(というか真の「邂逅」か)を果たしてからは、それまでの違和感が嘘のように、その語りかけがいちいち腑に落ち、胸に深く響いたのは我ながら不思議なことだ。やがて歌劇「利口な女狐の物語」「マクロプロス家の秘事(マクロプロス事件)」などの実演に接したりするうち、いつしかヤナーチェクは鍾愛の作曲家となって今日に至る。まだその全貌を捉えてはいないのだけれど。
さて今日の主題である「
わらべ唄 Říkadla/ Nursery Rhymes」とは一連のCDを聴き漁るうち自然と出くわしてその魅力に取り憑かれた。
これはヤナーチェク晩年の小さな傑作で、他愛のない十九篇の子供唄が次々に繰り出され、男女九人の歌手、木管、コントラバス、ピアノ、打楽器の奏者十人という小編成で奏される。音楽の醸す鄙びた味わい、歌詞の滑稽な愉しさもさることながら、小生にはその出自が見逃せない。ヤナーチェクはずっと愛読していた新聞『
リドヴェー・ノヴィニ』でこれらの詩と出逢ったのだといい(「消えた男の日記」も「利口な女狐の物語」も同じ)、個々の詩には
ヨゼフ・ラダ、
オンジェイ・セコラらの愉快な挿絵が添えられていたというから、これはもう聴かない訳にいかなくなる。
→ヨゼフ・ラダの挿絵(1) →ヨゼフ・ラダの挿絵(2) →オンジェイ・セコラの挿絵
「わらべ唄」はどれも一分に満たないような十九の小唄(最短は二十秒、最長でも一分半ほど)からなる。全曲に要する演奏時間は十五分位。題名を以下に記す。邦題は日本ヤナーチェク友の会が刊行した『
レオシュ・ヤナーチェク声楽曲 対訳全集』(改訂増補版、2008)という重宝な労作に概ね従った。
01. Úvod 序奏
02. Řípa se vdávala 砂糖大根のお嫁入り
03. Není lepší jako z jara 春に勝るものはない
04. Leze krtek podle meze 土龍が畦を這い回り
05. Karel do pekla zajel カレルが地獄行きだとさ
06. Roztrhané kalhoty 破れズボンに
07. Franta rasů, hrál na basu ラス(犬猫捕り)の息子フランタ、バスを弾く
08. Náš pes, náš pes うちの犬が、うちの犬が
09. Dělám, dělám kázání お説教だ、説教するぞ
10. Stará bába čarovala 婆さんが魔法かけると
11. Hó, hó, krávy dó ホー、ホー、牛が行く
12. Moje žena malučičká おいらのちっちゃな女房を
13. Bába leze do bezu おばばがライラックの茂みに潜る
14. Koza bílá hrušky sbírá 白い山羊が梨を集め
15. Němec brouk, hrnce tlouk 気難し屋のドイツ人が鍋を叩き
16. Koza leží na seně 山羊が乾草に寝そべって
17. Vašek, pašek, bubeník ヴァシェク、豚野郎、太鼓叩き
18. Frantíku, Frantíku フランチーク、フランチーク
19. Sedět' medvid' na kolod 熊さん丸太に乗っかって歌詞に登場するのは村人たちと動物たち。タイトルを読んだだけでも唄の鄙びた味わいや野放図で屈託ない調子が窺えるだろう。
あとはもう下に列挙したアルバムのどれかで、「わらべ唄」をお聴きいただくに如くはないのだが、もうひとつ、これはヤナーチェクの歿後になるが、実に素晴らしいアニメ映画が製作されている。以前それを紹介したエントリーを再録する。
レオシュ・ヤナーチェクがヨゼフ・ラダと組んだアニメーション映画が存在する、と聞けば、誰しも耳を疑うに違いない。そんな凄いコラボレーションがあったのか。まさか。絵/ヨゼフ・ラダ
作曲/レオシュ・ヤナーチェク
監督/エドゥアルト・ホフマン
わらべ歌 Říkadla
1949ヤナーチェクは1928年に歿しているのだから、当然のことながらこのアニメ映画には関与していない。
だが彼が生前にもしこれを観る機会があったなら、相好を崩してこう言っただろう。「わしが望んでいたのはまさしくこれだ!」と。
上映時間はわずか七分。くすんだ調子のカラー映像がたいそう好もしい。
正面向きの山羊の顔の上方に Říkadla と大書された絵本の表紙が画面一杯に映る。見えない手で頁が捲られると、ヨゼフ・ラダの名が記された頁が、更に捲られると今度はレオシュ・ヤナーチェクの名が現れる。その間にもうすでに音楽は始まっている。どこか調子外れのようでいて、まっすぐ心に染み入る旋律、鄙びていながら精妙でもある不思議な和声。あの懐かしいヤナーチェクの音楽だ。更に頁が捲られると、いよいよ「わらべ歌」本篇の始まりだ。歌ひとつにつき一頁。どれも一分かそこらの短い歌が全部で七つ。その度に頁が捲られていく。
映しだされるのはお馴染のヨゼフ・ラダの絵本とおんなじタッチ。くっきり輪郭線で囲われた動物と人間が四角い画面のなかでのんびり過ごしている図。塗り絵のように色分けされた画面は鄙びていて、しかも精妙。そうなのだ、ラダの絵はヤナーチェクの音楽とどこか似ていて、両者の相性は抜群なのだ。
絵本の絵は動かない。そのはずなのに、音楽につれて登場人物は歩き出し、寝そべり、川に転げ落ちたり。
七つの歌の題名を挙げておこうか。1.
春に勝るものはない登場人物: 山羊くん
2.
ラス(犬猫捕り)の息子フランタ、バスを弾く登場人物: フランタ、老いぼれ牝牛
3.
おばばがライラックの茂みに潜る登場人物: おばば、おいら
4.
白い山羊が梨を集め登場人物: 白い山羊、ぶちの山羊
5.
ヴァシェク、豚野郎、太鼓叩き登場人物: ヴァシェク、山羊二匹
6.
フランチーク、フランチーク登場人物: フランチーク、女の子
7.
熊さん丸太に乗っかって登場人物: 熊さん
どれも素朴にして滑稽、のんびり鄙びたユーモアが漂っていて、なんともいい味わいを醸している。ミニチュア・サイズの小咄ばかりなので、あっと言う間に終わってしまうのが残念だが、これを観ている七分間はまことに至福のひとときである。
ここで聴けるヤナーチェクの音楽は、晩年の1926年に完成した合唱と室内アンサンブルのための組曲「わらべ唄 Říkadla」という。全部で十八の「わらべ唄」に合奏だけの導入部がついた全十九曲からなるこの原曲から導入部と七つの唄を抜粋して、そこにヨゼフ・ラダの絵を付けたのがこのアニメ映画ということになる。
つまりは既存の楽曲を動画化したわけで、その点ではディズニーの『ファンタジア』や『ピーターとおおかみ』、手塚治虫の『展覧会の絵』といった音楽アニメと同類ということになろう。しかしながら、この『わらべ歌』はある一点においてそれらの作品と決定的に性格を異にしている。そして、その一点においてこそ、これはヤナーチェクとラダとの「真正の」コラボレーションたり得ているのである。
それはつまり、新聞の連載記事に基づいて作曲した時点で、ラダの挿絵がすでに存在し、ヤナーチェクはそのイラストレーションを念頭に置いて作曲したという事実である。聴こえてくる音楽がラダの絵の趣とピッタリなのはそのせいであろう。
どうです、これはちょっと観てみたくなるでしょう? 小生はだいぶ以前、確か新宿の小スペースだったか、チェコ・アニメ特集上映会でこの短篇映画を実見して、すっかり魅了されたものだ。暫くしてDVDも出た(「Fantastic Czech Animation 60's~70's 2D傑作アニメーション『共存』ほか」)。すでに版元品切のようだが、この短篇七分間のためだけでも当DVDは入手する価値がある。少なくもヤナーチェクやラダの愛好家にとっては垂涎の映像なのである。
では恒例に倣って(?)、手許にあるヤナーチェク「わらべ唄」のLPとCDを録音年代順に並べておこう。因みに上述の参考書『レオシュ・ヤナーチェク声楽曲 対訳全集』ではこの作品を「
韻ふみ歌」と名づけていることを附記しておく。
レオシュ・ヤナーチェク「わらべ唄/韻ふみ歌」ディスコグラフィ(架蔵分のみ)
Discography of "Říkadla" by Leoš Janáček
1)
Jan Kühn 指揮
■ Somm SOMMCD 201 (1995) →アルバム・カヴァー
男声合唱のための七つの歌*
・おお、軍隊よ、軍隊よ
・我が家の白樺の木
・夕べの人攫い
・別れ
・チェコ軍団
・さまよえる狂人
・ハルファル先生
・マリチカ・マグドノヴァ
・七万
アントニン・トゥチャプスキー指揮
モラヴィア教員合唱団
わらべ唄**
ヤン・キューン指揮
チェコ・フィルハーモニー合唱団・管弦楽団員
ピアノ/アルフレド・ホレチェク
1969年5月29、30日、クロムニェジーシュ(モラヴィア)*
1957年1月31日、2月1日、プラハ**
2)
Julius Rudel 指揮
■ Desto Records DST-6428 (LP, 1966) →アルバム・カヴァー
わらべ唄(英語版)
青春(木管合奏のための組曲)
ジュリアス・ルーデル指揮
キャラムア音楽祭合唱団・管弦楽団(クロード・モントゥー、中川良平ほか)
1966年、ニューヨーク、マディソン・サウンド・ストゥーディオズ
■ Phoenix PHCD 109 (1989) →アルバム・カヴァー
左手ピアノと木管合奏のための奇想曲
わらべ唄
青春(木管合奏のための組曲)
ピアノと室内アンサンブルのための小協奏曲*
ピアノ/ヒルデ・ソマー*
ジュリアス・ルーデル指揮
キャラムア音楽祭合唱団・管弦楽団
1966年、ニューヨーク、マディソン・サウンド・ストゥーディオズ
3)
Josef Veselka 指揮
■ Supraphon 1 12 1486 (LP, 1975) →アルバム・カヴァー
フラッチャニの歌
狼の足跡
わらべ唄*
カシュパル・ルツキー
ヨゼフ・ヴェセルカ指揮
プラハ・フィルハーモニー合唱団
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団員*
1972年8月21日~12月5日、プラハ、ドモヴィナ・スタジオ
■ Supraphon 11 0768-2 (1990) →アルバム・カヴァー
ピアノと室内アンサンブルのための小協奏曲*
左手ピアノと木管合奏のための奇想曲*
わらべ唄**
ピアノ/ヨゼフ・パーレニーチェク*
チェコ・フィルハーモニー木管アンサンブル*
ヨゼフ・ヴェセルカ指揮
プラハ・フィルハーモニー合唱団
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団員**
1972年9月5、6日、プラハ、ルドルフィヌム、ドヴォジャーク楽堂*
1972年8月21日~12月5日、プラハ、ドモヴィナ・スタジオ**
■ Supraphon SU 3295-2 211 (1997) →アルバム・カヴァー
フラッチャニの歌
狼の足跡
わらべ唄*
カシュパル・ルツキー
四つのモラヴィア男声合唱曲**
ヨゼフ・ヴェセルカ指揮
プラハ・フィルハーモニー合唱団
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団員*
1972年8月21日~12月5日、プラハ、ドモヴィナ・スタジオ
1977年3月12日~4月30日、プラハ、ルドルフィヌム、ドヴォジャーク楽堂**
4)
David Atherton 指揮
■ Decca (LP, 1978) →アルバム・カヴァー ◆未架蔵
"Piano and chamber works"
ピアノ/ポール・クロスリー
デイヴィッド・アサートン指揮
ロンドン・シンフォニエッタ合唱団・楽団員
1978年7月、ロンドン
■ ユニバーサル Decca UCCD 3951 (2008) →アルバム・カヴァー
ラシュスコ舞曲集*
弦楽合奏のための組曲**
わらべ唄***
フランソワ・ユイブレシュト指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団*
ネヴィル・マリナー卿指揮
アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ**
テノール/ブライアン・バロウズ
デイヴィッド・アサートン指揮
ロンドン・シンフォニエッタ合唱団・楽団員***
1970年10月、1974年7月、1978年7月、ロンドン
5)
Reinbert de Leeuw 指揮
■ Philips 442 543-2 (1995) →アルバム・カヴァー
"Choral Works"
野鴨
鳩
我が家の白樺の木
愛娘オルガの死に寄せる悲歌*
ハルファル先生
狼の足跡*
フラッチャニの歌
さまよえる狂人
わらべ唄*
レインベルト・デ・レーウ指揮
オランダ室内合唱団、シェーンベルク・アンサンブル
ピアノ/マリア・ボン*
1993年9月、ユトレヒト、マリア・ミノル教会
6)
Milan Uherek 指揮
■ Studio Matouš MK 0016-2 231 (1994) →アルバム・カヴァー
小さな女王たち*(全十一曲)
フクワルディ民俗詩(全十三曲)
民族夜曲(ロブネーのスロヴァキア人の夕暮の歌、全七曲)**
わらべ唄***
ルカーシュ・チェルニー*、ミラン・ウヘレク指揮
セヴェラーチェク児童合唱団* ** ***
室内アンサンブル***
1993年11月、1994年4月、プラハ、ドモヴィナ・スタジオ
7)
Thierry Fischer 指揮
■ Chandos CHAN 9399 (1995) →アルバム・カヴァー
青春(木管合奏のための組曲)
ピアノと室内アンサンブルのための小協奏曲
左手ピアノと木管合奏のための奇想曲
青い少年たちの行進曲(ピッコロとピアノのための)
わらべ唄*
ティエリー・フィッシャー指揮
プラハ演奏芸術アカデミー(臨時編成の児童合唱団)*
オランダ木管アンサンブル
ピアノ/ボリス・ベルマン
1995年1月12~14日、アムステルダム、ヴァールセ教会
8)
James Wood 指揮
■ Hyperion CDA 66893 (1997) →アルバム・カヴァー
"Choral Music"
わらべ唄*
カシュパル・ルツキー
七万
狼の足跡
愛娘オルガの死に寄せる悲歌
フラッチャニの歌
アウェ・マリア
我らが父
ジェイムズ・ウッド指揮
ニュー・ロンドン室内合唱団
クリティカル・バンド*
1996年3月12~14、16日、ロンドン
9)
Daniel Reuss 指揮
■ harmonia mundi HMC 902097 (2012) →アルバム・カヴァー
"Choral Works"
野鴨
狼の足跡
愛娘オルガの死に寄せる悲歌
わらべ唄*
我らの夕べ
アウェ・マリア
我らが父
ダニエル・ロイス指揮
カペラ・アムステルダム
放送管楽アンサンブル*
ピアノ/フィリップ・メイヤーズ
2010年11月、アムステルダム、ヴァールセ教会
10)
Pieter-Jelle de Boer 指揮
■ naïve V 5330 (2013) →アルバム・カヴァー
"Brumes d'Enfance"
野鴨
鳩
咽び泣く噴水 ~フラッチャニの歌
愛娘オルガの死に寄せる悲歌
霧の中で*
狼の足跡
わらべ唄** (エルヴィン・シュタイン編/十声、ヴィオラ、ピアノ)
ピアノ/アラン・プラネス* **
ヴィオラ/リーズ・ベルトー**
ピーテル=イェレ・デ・ブール指揮
アクセントゥス
2013年1月、ルヴァロワ=ペレ(オー=ド=セーヌ県)、ラヴェル楽堂