ここ数日のことなのだが、当ブログの訪問者数がいつもより格段に増加し、しかも「
荻窪ロフト」なるキーワードで検索してここに辿り着く方が圧倒的に多い。ちょっと調べてみたらみたら理由はすぐに判明した。数日前、読売新聞にこんな記事が掲載されていたからだ(「[東京の記憶] 荻窪ロフト」
→これ)。
三年前に書いたエントリーにアクセスが集中したのは明らかにそのせいだろう。他愛のない思い出話なのだが、例に拠って「まだ書きかけ」のまま尻切れトンボに終わっているのが申し訳ない。そこで末尾を書き足して、完全版(?)に仕上げ再録しておこう(後半の「どうしてそんなことになったのか」以降が加筆部分)。まあ愚にもつかない笑い話で終わるのだが、なにせ四十年近く前の実話なので今となっては歴史の一齣。どこかで何かの役に立たぬとも限らない。
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数年前たまたま荻窪に出向いた折り、南口周辺を少し探索してみた。
道筋は昔そのままだが、商店街はほとんど代替わりして馴染の店は数軒の古本屋しかない。駅を背に少し歩いてレコード屋の角を左折・・・と憶えていたのに、目印のレコード屋はもう跡形もない。たしかこの路地だと思うのだが、確信がもてなくなる。その一郭には今も昔もスナックやキャバレーが猥雑に軒を連らねていて、そのどこかだった筈なのだが、もはや記憶のなかでしか実在を確かめられない。
黒く塗られた急階段を地下一階まで下ると右脇に入口があった。扉を開けると店内の壁もまた黒一色。「ロフト」とは名ばかりで、そこは窓のない地下室だった。電灯とスポットライトに仄かに照らされた穴倉めいた空間には音楽が充満していた。木製の手作りテーブルにつくと何故か心が安らぐ。珈琲にするか、それとも水割りを頼むか。ひょろりとした長身にサングラスと帽子が目印のマスター「山ちゃん」、カウンター奥でいつも目を細めてニッコリ微笑んでいた看板娘の「ミミ」。もう四十年近く経つのに、まるで昨日のことみたいだ。
今も手許にその当時の簡易印刷によるB5版チラシが残っている。手書き文字で「
荻窪ロフトコンサートスケジュール」と大書された下に《11月》と《12月》の出演予定が列記される。年号の記載はないが、ラインナップからみて1975年だと推測がつく。11月分を書き写してみようか。
1(土) 鈴木慶一とムーンライダース ゲスト 本多信介とダックスフンド
2(日) 〃 ゲスト・安部静三バンド
7(金) マーブルヘッドメッセンジャー ゲスト・シェリフ
8(土) 〃 ゲスト・ストロベリージャム
9(日) 愛奴(あいど)
15(土) 金子マリとバックスバニー
16(日) めんたんぴん
19(水) アンクルムーニー(JUG MUSIC)
20(木) 鈴木茂とハックルバック/南佳孝
21(金) 大瀧詠一
22(土) 〃
23(日) シュガーベイブ
29(土) ハルヲフオン ゲスト・あんぜんBAND
30(日) 〃 ゲスト・コスモスファクトリー/内田裕也(予)この時代ならではの顔ぶれである。
バックスバニーに
めんたんぴん、鈴木慶一の
ムーンライダースと近田春夫の
ハルヲフオン。この1975年だけ存続した
ハックルバック、翌年春に解散してしまう
シュガーベイブ。彼らは荻窪ロフトの常連だった。タイムマシーンがあるなら戻ってもう一度聴いてみたいものだ。
11月に関していうなら
大瀧詠一の出演がとりわけ目を惹く。事実チラシにもさりげなく「
ライブスポット初登場!!」の字句が書き添えられている。
確かに1972年の
はっぴいえんど解散以降、大瀧が単独でコンサートを催す機会は(今に至るまで)ごく稀だったのだが、二日連続だという。しかもロフトは客席が数十しかない小スペース。色めきたたずにいられようか。
チラシには書いてないが、二日間の出演にはちょっとした趣向が凝らされた。
21日には
鈴木茂とハックルバックをバックに、半年前に出たばかりの鈴木茂の新アルバム『
バンドワゴン』を大瀧がカヴァーする。
22日には大瀧の「ナイアガラ」レーベルからデビューした
シュガーベイブを従えて、大瀧自身のアルバム『
ナイアガラ・ムーン』の収録曲を歌う。
流石に21日は超満員になった。百数十人は入ったろうか。後方半分程は立ち見だったと思う。狭いロフトの室内は文字どおり汗牛充棟、立錐の余地もないとはこのことだ。おまけに六時半の開演が何故か三時間近くも遅れた。黒い階段に並ばされ何時間も待たされたが、怒り出す人はひとりもいなかった。期待がそれほど大きかったのである。
九時を大きく廻ってようやく開演。鈴木茂とハックルバックがまず現れ、懐かしいイントロを奏でだす。「
外はいい天気だよ」──はっぴいえんどのラスト・アルバムに収められた長閑な佳曲だ。そしておもむろに大瀧が登場。割れるような拍手と歓声が巻き起こった。
この日の演目を記しておく。記憶はもはや不確かなので、『All about Niagara』(白夜書房、2001)という重宝な本から引こう。
01. 外はいい天気だよ
02. スノー・エキスプレス(インストルメンタル)
03. 砂の女
04. 100ワットの恋人
05. 銀河ラプソディー
06. 曲目未詳(ハックルバックのインストルメンタル曲)
07. オネスト・アイ・ドゥー(vo=佐藤博)
08. 氷雨月のスケッチ(vo=鈴木茂)
09. 八月の匂い
10. 夕焼け波止場
11. 人力飛行機の夜ご覧のとおり鈴木茂のアルバム『バンドワゴン』の曲がほぼ網羅された。太字で示したのがそれだ(「
微熱少年」とインストの「
ウッドペッカー」を除く全曲)。
これらを日常的に奏していたハックルバックにしてみればなんの造作もない通常プログラムだろうが、大瀧にとっては、これらを人前で唄うのは空前にして絶後。歌詞カードと首っ引きだったが、歌唱そのものは余裕綽々。「
砂の女」の一節「ウォウ、ウォウウォウ…」のところで思いきりタメをつくり、ちょっとおどけて強調したのがご愛敬だった。
「シゲルの曲はどれも唄いにくいんだよナ」とぼやきながらも、余興の域を遙かに超えた聴きものだった。頻出する高い声域もファルセットで難なくこなしていた。流石に「
夕焼け波止場」のエンディングは苦しくて往生していたが。
実はこのときハックルバックは既に解散が決まっており、数日前の11月16日に正規の「さよならコンサート」(東京厚生年金大ホール)も終えてしまっていた。今日のステージは彼らにとっていわば消化試合だったのだが、むしろリラックスして持てる力を無理なく発揮した好演ぶりが光っていたように思う。
当日ここに居合わせた誰もが等し並みに感動したのが「
氷雨月のスケッチ」。鈴木茂がはっぴいえんど時代の自作を唄うこと自体が珍しかったのだが、アルバムと同様リフレインの「ねえ、もうやめようよ…」で大瀧が絶妙に絡む。「まるではっぴいえんどそのままぢゃないか」とちょっとホロリとした。
アンコールはアルバムそっくりのアレンジで再現された大瀧の自作「
びんぼう」。会場の盛り上がりは凄まじく、そのまま終われずに再度「
びんぼう」が唄われた。
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翌22日にも荻窪ロフトに赴いた。大瀧詠一の二日連続ライヴの二日目。土曜日ということも手伝って、前日を上回る大混雑が予想されるので、用心して午後二時頃から早々と階段に並んだ。流石に一番乗りだった。
待つこと四時間。同じ列に並んだ若い連中と四方山話をして過ごすうち旧知の間柄のように親しくなった。昨日も来たという熱心なファンたちばかりである。小生はいい気になって、「
一番乗りの僕はさしずめナイアガラ・ファンクラブの会長だな」と軽口を叩いた。この一言があとでどんな災厄を齎すのかも知らずに。
また今日も待たされるのを覚悟していたら、定刻どおりスタートというので些か拍子抜け。六時開場とともにどっと流れ込み、コーラを手に最前列の中央を確保する。当然だ。今日も昨日に劣らぬ汗牛充棟ぶりで、身動きも儘ならぬほど。始まる前から室内は凄い熱気で噎せ返るようだ。
この日の趣向は
シュガーベイブをバックに、半年前に出た大瀧のセカンド・アルバム『
ナイアガラ・ムーン』をライヴで再現するというもの。
六時半に演奏開始。まずは壮大な瀧の音が響きわたる。そこにリズムボックスの音が被さり、おもむろに山下達郎が「レイディーズ&ジェントルメン云々」と英語で格好よく開幕を告げる。
この日の演目をお目に掛けよう。出典は前日分と同様に『All about Niagara』巻末のライヴ・リストである。
01. ナイアガラ・ムーンがまた輝けば
02. 三文ソング
03. 論寒牛男
04. お先にどうぞ
05. ハンド・クラッピング・ルンバ
06. 楽しい夜更し
07. 雨は手のひらにいっぱい
08. ダウンタウン
09. 楽しい夜更し
10. シャックリ・ママさん
11. あの娘に御用心
12. ロックン・ロール・マーチ
13. 恋はメレンゲ
(アンコール) 空飛ぶくじら
(アンコール) 外はいい天気だよ
(アンコール) 福生ストラット
(アンコール) ホンダラ行進曲太字で明記したのがアルバム『ナイアガラ・ムーン』収録曲。ア・カペラ曲で再現が難しい「
いつも夢中」とCM音楽の「
サイダー」を除くすべてがライヴで奏されたことがわかる。ほかに、かまやつひろしのために書いた「
お先にどうぞ」、沢田研二のために書いた「
あの娘に御用心」、更にはシュガーベイブの持ち歌である「
雨は手のひらにいっぱい」と「
ダウンタウン」までが大瀧によって歌われている。
この日のバックはシュガーベイブだったと書いたが、正確にいうと彼らのほかにコーラスとして
吉田美奈子、サックスの
稲垣次郎が(曲によっては)加わっていたし、当初は「僕の曲を全部知っているサカモト君」、すなわち
坂本龍一がピアノを担当する予定だった。ところが生憎その日は「NHKホールで小椋佳のコンサートがあるために来てもらえず」、その代役として急遽「ヤノさん」という見慣れない仏頂面の女性がピアノを弾いた。もっとも客席のわれわれは誰ひとり「サカモト」や「ヤノ」の存在を知らなかった。正式なデビュー前なのだから蓋し当然である(
矢野顕子がアルバム『Japanese Girl』でデビューするのは翌76年7月)。
この宵の演奏は果たしてどんなだったか。それが具体的に書けるといいのだが、つぶさに回想できない。細部まで鮮明に思い出せる前日に較べ、この第二夜についての小生の記憶は格段に希薄なのだ。後述するがそれには理由がある。
上に掲げたセットリストをとくと眺めてほしい。
六曲目に「
楽しい夜更し」が歌われたあと、少しして九曲目に再度「
楽しい夜更し」が登場するのが如何にも不自然で、奇異に感じられるであろう。
白状してしまおう。この九曲目で「楽しい夜更し」を歌ったのは大瀧御大ではない。もちろん山下達郎でも大貫妙子でもない。ほかならぬ小生なのである!
どうしてそんなことになったのか、事の顛末はこんなふうだ。シュガーベイブの伴奏で彼らの代表曲である「ダウンタウン」を唄ってやんやの喝采を浴びた大瀧は、やおらマイクに向かってこう呼びかけた。「
ここでひとつ、シュガーベイブをバックに大瀧詠一の曲を唄ってみたい、という人は誰かいないか」と。
藪から棒の提案だったので、会場はしんと静まり返ってしまった。当夜の客席には熱烈な大瀧ファンばかり参集していたのだから、全員が歌のひとつ位は口ずさめただろうが、大勢の人前で、シュガーベイブを従えて、しかも大瀧御大のいるところで唄わねばならないとなれば話は別だ。そりゃ、誰だって怯むよね。
暫しの間、気まずい沈黙が続いた。誰ひとり手を挙げる者はいない。そのときだった。小生の坐る最前列の誰かが叫んだ。「会長やれ」と。別の誰かが応じる、「そうだ会長やれ」と。「会長」とは「ファンクラブ会長」すなわち小生のことだ。入場を待つ間、迂闊にもそう僭称したものだから自業自得なのである。
こうなったらもう後には引けない。意を決して立ち上がると、目の前のマイクのところへ進み出た。大瀧が満足げに「出た!」と応じる。嬉しいことに左右に坐っていた数人も一緒に立ってくれ、助っ人でコーラスに加わる段取りになった。「お名前は?」「スズナベと申します」──スズナベとは当時の小生のペンネームである。膝がガクガク震えたが、頭は意外に冷静で、何を唄ったらいいのか必死に思いを巡らせていた。大瀧詠一の歌なら大概は知っているけれど、歌詞を隅々まで憶えている曲は限られるし、そもそも彼のソングは高音が頻出して格段に難しいのだ。そうなるともう選択肢はごく僅かしかない。
「で曲は何を?」と尋ねられ、迷わず「
楽しい夜更し」を、と所望した。この戯れ歌ふうのノヴェルティ・ソング(
→これ)だったら小生でもなんとか最後まで唄えそうだ・・・などと熟考する暇もなく、曲名が咄嗟に口を衝いて出た。
舞台──といっても客席と段差のない平土間なのだが──に立って超満員の客席と対峙すると流石に怖気づいた。全員の視線がこちらに集中するという逃げ場のない状況である。すかさず立見席から「ヌマベ~、生活がかかってるぞ~」と檄が飛ぶ(「荻窪大学」仲間の阿北さんだ)。その声で幾らか冷静さを取り戻す。
アルバムで聴き馴れたのとそっくり瓜二つのアレンジでイントロが流れだし、いよいよ「楽しい夜更し」が始まった。もう待ったなし、引き返すことはできない。
気の合う仲間集まりゃ 楽しぃよ
すぐに始まる麻雀 楽しぃよ
一荘(イーチャン) 二荘(リャンチャン)
やめられない止まらない
楽しい夜更し 明日は休みこんなお気楽な歌詞だから感情移入は無用。誰にでも唄える。この調子ならどうにか凌げそうだ、と少しばかり余裕が出た。そこで、二番に入ったところで、
午前零時は宵の口 楽しぃよ
開けて広い鰐の口 楽しぃよ
真夜中のディスクジョッキー
特集はCrazy Cats
楽しい夜更し 明日も休みとあるところを、思いつきの即興でひと捻りして「
特集は Mr. Niagara」と替え歌で唄ってみたら大うけしてやんやの喝采を浴びた。
そのあと三番との間の「間奏」で「ヤノさん」が弾く達者なピアノがやけに際立って響いたのが今も耳の底に残っている。
三番まで唄いきると同時に拍手と大歓声。終わってしまうとあっと云う間の二分半だった。小生たちが歌っている間、袖では大瀧と山下が苦笑しながら顔を見合わせ「よくやるよ、全く」といった表情を浮かべていた、とあとで友人から聞かされた。
そのあとコンサートがどう展開されたかはサッパリ記憶にない。大舞台を済ませた安堵感から虚脱状態に陥り、演奏に耳を傾ける余力が失せたのだろう。
小生が他人様の前で生バンドと一緒に歌ったのは後にも先にもこの一回きりだ。そのとき背後に従えていたのがシュガーベイブと矢野顕子だというのだから、我ながら信じがたい体験である。本当にあった出来事とはとても思えない。
この話には後日談がある。半年ほど経ってから、大瀧詠一プロデュースのもと布谷文夫がシングル盤「ナイアガラ音頭」で再デビューを飾った際、素人が参加する
「ナイアガラ音頭のど自慢大会」なる催しが企画された。そのとき大瀧氏の事務所から小生にもじきじきに出演の打診があった。これにはすっかり恐縮してご辞退申し上げたのだが、果たしてそれでよかったのかどうか。このときコンクールに出て優勝したサエキけんぞう氏はこれを機縁としてプロのミュージシャンとなった。いや、だから別にどうという話でもないのだが・・・。
小生があのとき出任せに口にした大瀧詠一の「ファンクラブ」はほどなく津田塾大学の後藤さんを「会長」、二松学舎大学の斎藤さんを「会計」に据えた陣容で正式に発足し、ガリ版刷りの読み応えある会報が二十数号まで出た。小生もこっそり愛読者としてその驥尾に附したものだ。