この一週間、厄介な仕事に時間を奪われて、どうにも書物を繙き文章を綴る暇が捻出できなかった。やっと解放されてBBCラヂオ3の音楽番組に耳を傾ける。作業中も流し聴きしてはいたものの、なかなか胸に沁みるところまでいかなかった。やっと心おきなく音楽に没入できて幸せこのうえない。
倫敦のサウス・バンク・センターでは今年一年かけて20世紀音楽を総括する意欲的な企て "
The Rest is Noise" が進行中なのだが、なかなかBBCで中継されず悔しい思いをしていた(単に小生が聞き逃していただけなのか)。
このシリーズ名は米国の批評家
アレックス・ロスの著作(秀抜にして示唆的な20世紀音楽史の読物)の題名をそのまま拝借・踏襲したものだ。響きがよく意味深長ではあるが、"The Rest is Noise" とは理解が難しいタイトルだ。恐らくロスは《ハムレット》の有名な科白「残るは沈黙。──The rest is silence.」をひと捻りして、20世紀音楽の百年の歩みは「あとに騒音を残しただけで終わったのか」と問いかけた積もりなのだろう。この本には邦訳(柿沼敏江さんの実に読みやすい労作だ)があるが、標題は些か安易に「
20世紀を語る音楽」と題されて原題の含意やニュアンスが蔑ろにされたのは残念な気がする。
それはともかく英京の音楽祭「残るは騒音」のほうは第二次大戦後の音楽に差し掛かり、いよいよ佳境に入った模様。10月23日、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでの演奏会は「神聖と諧謔 Sacred and Satirical」と副題され、
プーランク(の中期)と
プロコフィエフ(の最晩年)とが組み合わせられ対置される。
しかも指揮は俊才
ネゼ=セガン、ピアノ独奏が
アレクサンドル・タロー、ソプラノ独唱が
ケイト・ロイヤルとくれば、これはもう聴かざるべからず。
London Philharmonic ─ Prokofiev, Poulenc
The London Philharmonic perform Prokofiev's nostalgic last
symphony alongside Poulenc's breezy Piano Concerto and his
spiritually-charged Stabat Mater, all works written in the early
1950s.
Presented by Martin Handley and Caroline Potter as part of the
South Bank Centre's year-long celebration: The Rest is Noise.
Francis Poulenc: Piano Concerto
Sergey Prokofiev: Symphony No.7 in C sharp minor Op. 131
Francis Poulenc: Stabat mater
Alexandre Tharaud (piano)
Kate Royal (soprano)
London Philharmonic Choir and Orchestra
London Philharmonic
Yannick Nézet-Séguin (conductor)
Poulenc's ebullient Piano Concerto combines the grace and wit
of his pre-war scores with the satirical mimicry that was rife in
20th-century Paris. The composer though, claimed that 'the
best and most genuine part of myself' was to be found in his
sacred music: his Stabat Mater, which ends tonight's concert,
is by turns intense, intricate and spiritual. And some of that
same spirit of nostalgia and melancholy suffuses Prokofiev's
Seventh Symphony of 1952 The emotional restraint of this work
made a huge impression on his colleague, Dmitri Shotakovich
and marked Prokofiev's farewell to the symphony.プロコフィエフとプーランクの取り合わせは意表を突く。フルート奏者のリサイタル以外の場で両者の作品が並ぶことは滅多にないからである。だが両者はパリで顔見知りだったし、プーランク作品にはプロコフィエフからの感化が垣間見えよう。プロコフィエフは日記や手紙でプーランクに批判めいた言辞を漏らしてはいるものの、共通の友人だったピエール=オクターヴ・フェルーが同時代室内楽の振興を目論み「トリトン」を結成すると、両者はこぞって参加している。フェルーのチェロ・ソナタはプロコフィエフその人に献呈されているし、その無残きわまる交通事故死(1936)はプーランクを宗教音楽へと向かわせる契機となった…。
というわけで因縁浅からぬ二人を組み合わせる演奏会とは意外でもなんでもない、仏蘭西風にいうならば "Vous avez raison."──実に御尤もなのである。
確かにこれは卓見である。1952年にプロコフィエフが病床で書いた最後の交響曲は、プーランクが1949年と50年に作曲したピアノ協奏曲と「スターバト・マーテル」としっくり協和し、紛れもない「同時代音楽」として聴こえる。平明な抒情のなかに仄かに諧謔が透けて見え、第二次大戦後の潮流にきっぱり背を向けた「反時代的」調性音楽である点もおんなじだ。プロコフィエフが提唱した「新たな単純性」はプーランクが歩んだ道でもあったのではないか。
ネゼ=セガンの指揮はその辺りの機微を周到に浮き彫りにして甚だ見事。タローのピアノはややもすると取り止めなく散漫になりがちなピアノ協奏曲をきりりと瀟洒にまとめあげていたし、最後の「スターバト・マーテル」はたいそう感動的な名演。ロイヤル嬢の明澄なソプラノが錦上花を添えた。こういう味わい深い演奏会がテムズ河畔で日常的に聴けるなんて、羨ましすぎるぞロンドナーたちは。