朝から抜けるような青空。七月に入ったとはいえ、梅雨も明けてはいないのに、爽やかな海風に夏の馨りが漂う。今日は暑くなりそうだ。
こんな日に聴くべき音楽はなんだろう。たまたま手近なCDに手を伸ばす。理由は定かでないが、これはきっと初夏の朝に相応しいのではあるまいか。
"Earl Wild: Reynaldo Hahn
Le Rossignol Éperdu/ The Bewildered Nightingale"
レイナルド・アーン:
ピアノのための五十三の詩曲「うろたえる夜鶯」
ピアノ/アール・ワイルド
2001年4月30日~5月5日、オハイオ州コロンバス、ファーンリーフ・アビー
Ivory Classics 72006 (2CDs, 2001)
ベネズエラ生まれながら
レイナルド(あるいはレナルド)・
アーンは三歳のとき移り住んだ仏蘭西で作曲家・指揮者として名を成した。19世紀末から20世紀初頭の巴里、ベル・エポック期のサロン文化を象徴する存在として知られる。彼の歌曲のいくつかは仏蘭西歌曲の夕べに欠かせないレペルトワールとして今なお愛唱されているし、近代文学好きならばマルセル・プルーストの永年にわたる恋人として彼の名に親炙していよう。
だが歌曲以外の作品となると途端に私たちの知見はぐっと狭まる。一世を風靡したという彼のオペレッタ群は仏蘭西以外ではまず上演されないし、ジャン・コクトー台本、ニジンスキー主演でバレエ・リュスの舞台にかかった『青い神』は封印されたまま聴く機会がない。ましてアーンのピアノ曲ともなると、その存在すら滅多に人々の口の端に上ることはなさそうだ。
小生がこの録音を知ったのは今から十年ほど前、平林直哉さんが編集長を務めていた季刊誌『クラシックプレス』のCDレヴューを担当していた縁からである。編集部には試聴用CDを詰めた段ボール箱が置かれていて、レヴュー担当者はそこから好みの輸入盤を選りすぐって聴き、手短な批評文(むしろ紹介文)に仕立てる。小生はその末端に連なる素人レヴュアーだったから、片山杜秀、福島章恭、鈴木淳史といった「豪の者」たちが拾わなかったCDを細々と紹介した。いわば落穂拾いなのだが、そのなかに驚くほどの名品が潜んでいることもあった。本作はその一例である。まずは往時のレヴューを丸ごと引こう。ちょっと恥ずかしいが。
プルーストの無二の親友=恋人として語られることの多いレイナルド・アーン(1874~1947)。先般東京で催されたアファナシエフの演奏会「プルーストの音楽を求めて」でも、アンコールはアーンの歌曲(の室内楽版)だった。近年ようやく再評価が進みつつある彼の、今回は珍しくもピアノ音楽、それもポエティックな小品53曲を集めた「うろたえる夜鶯」(1912)である。マグダ・タリアフェロの愛奏曲だった第16曲「エグランティーヌ王子の夢想」を除くと、まるで知らない曲ばかりだが(本盤は全曲の世界初録音)、聴き進むにつれ千変万化するピアノに幻惑され、いつしか深みにはまること必定。ヴェルレーヌ、ユゴーなどさまざまな文学作品を霊感源に、折りに触れ書き継がれてきた音楽は、この「遅れてきたロマンティスト」最上のエッセンスと評されよう。腕の立つ旧式のヴィルトゥオーゾだとばかり思っていたアール・ワイルドの、予想だにせぬ豊穣で深遠な表現力には脱帽だ。
字数の制限があったので充分に意を尽くせない憾みはあるが、曲の珍しさだけでなく演奏の老練にもいたく感動したのだった。なおレヴューには書けなかったが、この時点でアール・ワイルドは八十五の高齢だったのに、技術の衰えも弛緩する瞬間もないのに驚嘆。真の名人芸とはこのことだ。その後も彼は矍鑠と演奏活動を続け、2010年に九十四歳の長寿を全うした由。
ところで平林編集長との約束で、試聴したCDは速やかに編集部に返却したので残念ながら手許には残らない。その後、中古ショップを覗く度毎に当該ディスクを捜したが、どうにも見つからない。よほど市中に出回らなかったか、あるいは手放す人が稀なのか、恐らく両方であろう。
そういう訳でもう再会を諦めかけた矢先、嘘のような安価で先日ひょっこり出くわしたものだから、これも何かの縁と即座に手にした次第。十年ぶりに聴いてみると、芳醇なワインのように馨り高い楽曲と玄妙で奥床しい演奏にうっとり夢心地。茹だるような暑さもしばし忘れて酔いしれた。C'est l'heure exquise...