(承前)
1946年10月。前年末に帰国したヴァイオリニスト
諏訪根自子による一連の披露演奏会は目醒ましい成功を収めたという。
10月3日(東京、帝国劇場)、5日(大阪、朝日講堂)、6日(同)、8日(東京、帝国劇場)、9日(同)、11日(同)──六日間の公演はいずれも満員の盛況だったと伝えられる。昨日ここで紹介した批評はこの一連の帝劇リサイタルに対するものであった。そのときの舞台写真も残されている(
→これ)。撮影日は特定できないが、僅かに覗くピアニストの顔はどうやらマンフレート・グルリットらしい。諏訪の表情からは強い集中ぶりが察知されるものの、
恩地孝四郎の版画(
→これ)に見るような恐ろしげな憑依の貌つきとは似ても似つかない。まるきり別人の趣だ。
ところで、諏訪根自子の演奏日程はこのあとどうなっていたのだろうか。昨日と同じく当時の資料に拠るとこうだ。
10月22日(火) 静岡 ピアノ伴奏/グルリット
10月25日(金) 金沢 ピアノ伴奏/グルリット
10月26日(土) 高岡 ピアノ伴奏/グルリット
10月29日(火) 東京、帝国劇場(主催/Tokyo Army Education Center)
*進駐軍関係の演奏会。ピアノ伴奏/未詳
11月2日(土) 三次 ピアノ伴奏/グルリット
11月3日(日) 広島 ピアノ伴奏/グルリット
11月6日(水) 名古屋 ピアノ伴奏/グルリット
11月12日(火) 東京 NHK ラジオ放送 午後八時~
*曲目はバッハのシャコンヌ、ショーソンの詩曲。ピアノ伴奏/グルリット
11月15日(金) 横浜 第八軍慰問音楽会
*「第八軍」とは進駐米軍のこと。ピアノ伴奏/井口基成
11月18日(月) 埼玉 ピアノ伴奏/グルリット
11月23日(土) 姫路 ピアノ伴奏/井口基成
11月24日(日) 岡山 ピアノ伴奏/井口基成
11月27日(水) 長崎 ピアノ伴奏/井口基成
11月28日(木) 佐世保 ピアノ伴奏/井口基成
11月29日(金) 久留米 ピアノ伴奏/井口基成
12月1日(日) 福岡 ピアノ伴奏/井口基成
12月2日(月) 福岡 ピアノ伴奏/井口基成
12月3日(火) 米子 ピアノ伴奏/井口基成
12月4日(水) 松江 ピアノ伴奏/井口基成いい加減このあたりにしておこうか。以後も延々と続くのだが。
それにしても、東奔西走まさしく目を瞠る活躍ぶりだ。当時の国内ツアーはいつもこんなにタイトな日程だったのか。しかも交通事情の悪かった戦後すぐの時代である。そもそも空襲で焼き尽くされた都市でコンサート会場は見つかったのだろうか。広島や長崎ではどうしたのだろう?
いくら当時の諏訪が若さの絶頂にあったとはいえ、また、十年ぶりに故国で演奏する歓びに溢れていたとしても、このスケジュールは余りにも過酷ではないだろうか。彼女のマネジメントを担当していた東宝はよほど儲けたことだろう。
ところで恩地孝四郎はいつどこで諏訪根自子の演奏に触れたのだろうか。昨日も引いた恩地の詩をもう一度ここに掲げよう。
弓が力をこめて空へすり上る
この痩身のバイオリン奏者を照らし出す人工光
何といふ黄色い光であるのか
蒼白な顔面を、衣の白絹を
この肉體は戰乱の歐洲を通つて來た。
そしていま祖國の、占領軍下のステージに立つ
あゝ、骨身を削つてゆく弦と弦との擦音。
藝術は何と悲愴なものであるか
私の心臓は黄色くなり
泪もまた黄色くなり (一九四七・一〇・二九 諏訪根自子をきく)桑原規子さんの新著によると、恩地がこの詩に添えた年記「1947年」は恐らく誤記と思われ、実際は木版画と同じ1946年の作らしい。すなわち、詩と版画とは同じ1946年のコンサート体験の所産だというのである。(因みに版画のほうは翌47年4月の団体展に初出品されたので、制作時期は46年末頃と推定される。)
ところでもしも恩地が詩の末尾に註記した日附「1947年10月29日」が誤りで、正しくは「
1946年10月29日」だと仮定するとどうなるか。
上に挙げた諏訪根自子の日程に照らしてみると、そのコンサートとは、
10月29日(火) 東京、帝国劇場(主催/Tokyo Army Education Center)
*進駐軍関係の演奏会。ピアノ伴奏/未詳に該当しよう。もしこの仮説が正しいならば、この日の恩地は日本人オフリミッツで立ち入れなかった筈の進駐軍の米兵向け演奏会に何故か足を運んでいたことになろう。見渡すと周囲は軍服姿の米人ばかりである。東京のど真中に位置するホールでありながら、日本人はステージ上の演奏家と客席に坐る恩地だけという頗る異常な環境下での鑑賞体験だったことが容易に察しられる。
このように想像するならば、同じ体験に由来する恩地の詩にある一節、
この肉體は戰乱の歐洲を通つて來た。
そしていま祖國の、占領軍下のステージに立つの意味するところが明らかになる。諏訪はパリ、ベルリン、ウィーン、ベルンと戦火をかい潜るように転々と移動し、「
戰乱の歐洲を通つて來た」。ドイツ降伏と同時に連合軍に監禁されたのち、敵国人として米国に連行され、終戦後の12月8日ようやく帰国を果たした。幸いにも(ベルリンでゲッベルスから贈られたという)愛器ストラディヴァリウスの没収は辛くも免れた。その彼女が東京の地で米兵のためのコンサートを催して「
占領軍下のステージに立つ」。恩地がその場で感じ取った悲愴感は恐らく諏訪のヴァイオリンから流れ出たものばかりではなかったであろう。「
藝術は何と悲愴なものであるか」の詩句には万感の思いが吐露されている。
ところで誰もが訝しく思うのは、一般の日本人は立入厳禁だった米兵向け演奏会なのに、どうして恩地は聴く機会を得たのかという点であろう。進駐軍との間に何か特殊なコネクションでもあったのだろうか。
知り得る限り、1946年の時点で既に恩地には昵懇の仲だった米軍関係者が少なくともひとり存在した。その人物の名は
アーンスト・ハッカー Ernst Hacker という(
→写真)。1917年ウィーンで生まれたユダヤ系オーストリア人のハッカーは38年にナチス政権を避けて米国に逃れ、ニューヨークで美術を学んだ。このときから版画を始める。やがて第二次大戦に従軍。
やがて終戦に際し占領軍の一員として来日、特技を生かして日比谷のアーニ―・パイル劇場(東京宝塚劇場を進駐軍が接収・改名し、専ら軍関係者の慰安を目的とする興行に使用した)でポスター制作などに携わる。たまたま日比谷の書店で恩地とその仲間の新刊版画集を見かけて魅了されたという。
恩地は1946年のかなり早い時点でハッカーと知り合いになっていた。その証拠に46年4月に荻窪の恩地宅の庭先でこんな写真が撮られている(
→これ)。親密な雰囲気は家族ぐるみのこまやかな交遊をすぐさま想像させよう。同じ46年、恩地はハッカーの肖像版画(
→これ)まで創作するほど彼と近しい間柄だったのだ。
以上のような状況証拠から、1946年10月29日の諏訪根自子の演奏会に恩地を誘ったのはハッカーその人だったと推察できるのではないか。アーニ―・パイル劇場に勤務していた彼にとって、帝劇で催される進駐軍関係のコンサートの切符を融通するなど、いとも容易なことだったに違いない。
ここで再び恩地の詩句に戻るならば、次の三行は殊のほか注目に値する。
この痩身のバイオリン奏者を照らし出す人工光
何といふ黄色い光であるのか
蒼白な顔面を、衣の白絹を諏訪の青ざめた顔と彼女の纏った純白の舞台衣裳とを、異様なほどに「黄色い」ライトが照らし出す。
改めて恩地の版画(
→これ)を仔細に観察すると奇妙な表現に出喰わす。諏訪の顔はたしかに強い光で照らされているのだが、ちょうどその鼻筋にそって一本の線が隈取のように黒々と引かれ、彼女の顔を左右に二分する。
この黒い縦線こそは諏訪の表情に禍々しくも鬼気迫る趣を与えるものだが、これをもし彼女が右手に持つヴァイオリンの弓の落とした影と解するならば(今年出た池内紀の恩地評伝はそこまで推察しないが)、このとき舞台上に佇む諏訪をめがけ、ほぼ真横に上手方向から強いスポットライトが浴びせられたことになろう。
(まだ書きかけ)