もう数日前になるが、
ジョニー吉長の訃報を友人のツイッターで知らされた。日本のロック草創期から今日まで長いキャリアを誇る実力派ドラマーである。享年六十三。余りにも早過ぎる死に言葉を失う。近年は映画俳優としても渋い演技を披露していたそうだが、寡聞にしてそのあたりの近況は全く知らない。
生のジョニー吉長に接したのは遙か遠い昔、それもほんの三、四回に過ぎない。あれは1977年だったか、最初のソロ・アルバムの発売記念コンサート(?)にも足を運んだと思うのだが、もう細部の記憶はひどく曖昧だ。疲れ知らずのパワフルな演奏で、ドラムズのソロが延々と続いたこと、スティック捌きが驚異的に素早く、さながら千手観音のように見えたこと、思い出すのはそんな断片的イメージだけだ。
だから追悼文をしたためる資格は殆どない。とはいうものの、彼はわが二十代における鍾愛のロックバンド「
金子マリ&バックスバニー」のドラマーだったのだから、その死を黙って遣り過ごす訳にもいかないのである。
金子マリ&バックスバニーとの初遭遇は1975年の夏。荻大の仲間たちに誘われ日比谷野音のコンサートを観に行った("Summer Rock Carnival" 7月26日/入場料八百円)。シュガーベイブ、愛奴、鈴木茂&ハックルバック、頭脳警察、上田正樹&サウストゥサウス...目の眩むような出演陣のなかで、バックスバニーはひときわ輝いていた。金子マリのヴォーカルは若く強靭なパワーに溢れていたし、バンドとしての技倆も図抜けていたと思う。とにかく一遍で好きになってしまったのだ。
その後は上京し阿佐谷に下宿したことも手伝い、無料か安価で聴ける大学の学園祭のコンサートや、近所の荻窪や下北沢のロック居酒屋「ロフト」に頻繁に出演する金子マリ&バックスバニーの実演に足繁く通った。その数、十回や十五回に留まらないと思う。毎月のように聴いていたのだ。あれはいつだったか、「やんろーど」という月刊情報誌が東京のライヴスポットを特集したとき、荻窪ロフトでのバックスバニーのライヴの模様がたまたま取材され、最前列席に陣取った小生と友人の姿が巻頭グラヴィアを飾ったこともあったっけ。まあ、それくらい熱心に通ったという訳だ。
もっともこの時期のバックスバニーにはジョニー吉長はまだ関わらない。当時のメンバーは永井充男(g)、鳴瀬喜博(b)、難波弘之(key)、橋本英晴(d)。天衣無縫の歌姫を自在に唄わせるという目的のために腕自慢の男共四人が集まり、出しゃばることなく黙々とバックに徹するという構図だった。緻密でタイトな音に金子マリの屈託ないパワフルな肉声が重なるところにバックスバニーならではのスリリングな魅力があったと思う。少なくとも小生が頻りに聴いた75年夏から76年末頃までの実演はいつもそうだったと断言できる。
残念なのはこの時期のバックスバニーの迫力を正しく伝える録音がどこにも存在しないことだ。76年春に出たファースト・アルバムは落胆するほかない不満足な出来だったし、同年末に収録されたライヴ・アルバムも生の魅惑をただ矮小化したような代物。誰かがいみじくも云っていたように「会場で隠し録りしたカセットのほうが遙かにいい音がする」。だから当時を知らぬ人に「ほら、これを聴いたら凄さがわかる」と云えない悔しさが募るばかりなのだ。
(まだ書きかけ)