埼玉は千葉の隣県なのだが、いざ往還するとなると骨折れる。今日の行先は与野の「彩の国さいたま芸術劇場」。芝居好きな知人に誘われ家人と共に出掛けた。ここに赴くのは2002年にブレヒト=ワイル「七つの大罪」を観たとき以来だから実に十年振り。拙宅からは一時間半程度の道のりに過ぎないが、馴れないのと乗換が厄介なのとで心理的距離はもっと遠く感じる。
米国で「
海辺のカフカ」が芝居になり、その翻訳台本に蜷川幸雄が独自の解釈を加えて演出するという。これまで村上春樹作品の映画化は悉く失敗に終わっているが果たして舞台化はどうだろう。怖いもの見たさの好奇心から遥々出向いたのだ。
元の小説は十年前に読んだきりなので細部はサッパリ忘れてしまった。同行の家人は観劇に備えて原作を日本語と英語で(!)読み直したという。その言に拠ると今回の台本はエピソードを丹念に追いつつ、かなり忠実に物語を辿っているそうな。
いやはや、この芝居の感想を一言で表すのは容易でない。決して愉しまなかった訳ではないのだが、さりとて素晴らしかったとも云い難い。敢えて言葉にするならば「
少しも退屈はしなかったけど、どうにも釈然としない」といったところか。
その責任の半分はどうやら村上の原作にありそうだ。だんだん思い出してきたのだが、この小説を二分する「カフカ少年」の逃避行と、頭の弱い「ナカタさん」の闇雲な無銭旅行とが、ずっと並列進行するばかりで最後の最後に至るまで交錯しないため、物語が大団円へと収斂せず(それこそが狙いなのか知らん)、なんだか騙し討ちにあったような感じだからなのだ。その点は芝居も全く同断。三時間半も付き合ったドラマは一体全体なんだったのだということになる。
残りの半分はこの芝居の台本(米人フランク・ギャラティ/映画「偶然の旅行者」の脚本家)そのものにある。「カフカ少年」の宿敵である父親が舞台には全く登場しないのは失策だろう。「ナカタさん」が体を張って対決する「猫殺しジョニー・ウォーカー」はどうやらその父親ということらしいが、実際に出現するのは「ナカタさん」の妄想の産物である奇想天外なキャラクターなので、主人公をかくも追いつめ、駆り立てたコンプレックスの源泉たる「父親」の実態はずっと謎に包まれたまんまなのだ。だからカフカ少年の行状は最初から最後まで一貫して「釈然としない」のである。
とはいうものの、舞台そのものには目を瞠るところが多々あった。あの矢鱈と飛躍する異常な出来事の連鎖も、思い切り戯画化された登場人物の造形も、よくぞまあここまで忠実に視覚化したものだ。荒唐無稽でありつつ、魔術的なリアリティをも内包する細部を実に微に入り細を穿つように追求する。「ジョニー・ウォーカー」の戦慄も、「カーネル・サンダーズ」の愛嬌も、スラップスティックすれすれの奇矯な人物像を、信ずるに足る確かな手応えで現出させた。一重に蜷川演出の力技の賜物だろう。
この芝居の最大の収穫が秀逸な舞台装置(中越司)なのは恐らく衆目の一致するところだろう。複雑なプロットどおり目まぐるしく変わる場面を大掛かりに設営せず、各情景を硝子張りのコンテナに封じ込め、その可動式の小ステージ群が黒子の人力で舞台上に所狭しと出没・移動・交替する。この巧妙な手法だと、煩雑な舞台転換で興を殺がれる心配はなくなるし、コンテナの存在はいつも劇中劇を観ているようなクールな距離感を観客に抱かせ、物語の虚構性が保証される効能もある。
言うならばジョゼフ・コーネルの作品を覗き込むような塩梅で、村上春樹の紡ぐ不条理なグラン・ギニョール芝居の一部始終を私たちは「箱のなかに」観るのだ。